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怪文書:可愛いと正義

※以下は暗く、要領を得ない文章。
これを読んでいて気分が良くなる事はまずない。
読まないのが吉。




「可愛いは正義」という言葉がありますが、私は必ずしもそうだと思いません。
「可愛い」と思ったものが、自分の正義感と矛盾する場合だってあると思います。いわば「可愛いVS正義」という構図だって存在し得ると思うのです。
その場合、どっちを取るのが正解なんでしょうね。

ちなみに私は「可愛い」を取る側の人間でした。


私は、今の推し(圧倒的に可愛い)を好きでいるために、正義感をちょっとだけ削った自覚があります。

彼のやった事で、私の正義感に照らし合わせると、どうしても受け付けないような事がありました。彼はきっと「これがいちばん現実的な方法だよ」とでも言うのでしょうが、この問題は私にとって、信仰とも呼べるぐらい大事なことでした。

私はその信仰を、彼を好きでいるために手放しました。
言うなれば、「可愛い」と「正義」を天秤にかけて「可愛い」を取ったのです。

そこまでして彼を推すのは、彼がたまらなく可愛いからです。彼の暗い目の奥に、美しい景色が見えるからです。いい匂いがしそうだからです。

私はどう足掻いても彼を嫌いになりきれず、結局、彼の魅力の前に屈服しました。怠惰で臆病な私らしい選択です。



正義感を削ってする推し活は、正直言って楽しいです。
何せ、筋を通す必要がありません。推す側(私)も推される側(彼)にも、義務や責任を求める必要はありません。正義や理想による紐帯はとっくの昔に、しかも向こうのほうから破綻させたのですから。(さんざん優柔不断だった癖に、こういう時のフットワークの軽さには驚かされます。やっぱり聡い人だ)
正義の破綻した推し活は良いものです。正義を示すための理屈をこねる手間が省け、彼の美しいイメージに没頭できます。

でも時々、謎の喪失感を感じます。心の平穏は手に入れたものの、何か大切な物を売り渡したような気がします。

「私は彼を好きでいる事で、良い自分になったのだろうか?」

ふと、そんな疑問が頭をよぎります。素直に首を縦に振ることはできません。
人間、自分が正しいと思った時には気持ちが良くなるものですが、彼を推していてそういった爽快感は全くありません。むしろ、どんよりとした気持ちが胸の辺りに溜まっていき、ゆっくりと沈んでいく感覚があります。

彼を好きになって良かった事と言えば、歴史に興味を持つようになったことでしょうか。しかし、そのせいで故郷の歴史まで深掘りしてしまい、結果的に彼を憎む羽目になったのですが。今となっては、むしろ知らない方が良かったとさえ思います。

なら何故、依然として彼を好きでいるのか?という話ですが「嫌いになりきれないから」としか言えません。非常に笑える話ですが、苦しい時に真っ先に思い浮かぶのは彼の顔なのです。あの暗い眼の持ち主なら、私の気持ちを分かってくれそうな気がします。まあ、勝手な思い込みですが。私の出自も含め滑稽なのは自覚しています。

私は最近まで、彼を「推し」ている現状を「困難を乗り越えた」結果だと思っていましたが、実際は違うのでしょう。これはただの逃避です。正義感と恋慕が成すジレンマから距離を置き、無知な演技をしているだけに過ぎません。

私のような人間が沢山いると、世の中は一向に良くならないんでしょうね。
自覚はあります。それゆえ、名前を隠してインターネットの端っこでコソコソ書いているのです。正義感の強い方、これぐらいはお許し下さい。


先日、同郷の友人から、彼の件で見当違いの誹りを受けました。友人を信用したからこそ彼への想いを打ち明けたのですが、理解されなかったようです。どうやら友人は、私が軽薄な正義感で彼を好いていると思ったようでした。
(以下、攻撃的な言葉の羅列。友人を非難する旨。あまりに酷いので削除)

とても残念です。





この怪文書を最後まで根気よくお読み頂いたあなたに、お礼として一つ教訓を授けます。大した事ではありません。

歴史上の人物にガチ恋はするな。

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