安心して絶望って
親愛する活動家、後藤誠子さんの記事に目が止まりました。昨日Cuddleカフェでもチラッと話題になった事でした。シンクロしてますね!
後藤誠子さんの記事
自己否定が止まらない子どもたち
Cuddleの投稿
Cuddleカフェレポート
親が受容しても子どもが自己否定する時って、親が試されてる…と思うのですよ。
"本当に?このままでもいいの?
引きこもりになっても?
働けなくなっても?
それでもありのままでいいの?口だけじゃないの?"って。
昨日のCuddleカフェでもこの話をしましたが、それは親御さんや先生たち…社会の大人たちが本当にこの事を受け入れてるのかって子どもたちからのメッセージだと思ってます。
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"もしあなたのパートナーさんが職場が合わなくてお仕事を辞めて、家でぶらぶらしてたら?"
"もし何かのきっかけで心を病んで家事や育児、一切出来なくなったら?"
"家の人がいつもの朝のゴミ出しをしなくなったら?"
これまで出来ていた(と思っていた)事が出来なくなった…それだけでも当人には大きなショックです。情けない、と自分を責めてしまう。
出来ていた事が、世間で認められている様な事であればあるほど、世間では当たり前だ、と思われている事であればあるほど、出来なくなった時の衝撃は大きいです。現実逃避するために、一日中ゲームや携帯をいじるなんて事もあるあるです。
それに最初は、'仕方ないな'と思えても時間が経つにつれ、ぶらぶらしているパートナーさんに対して、いつまで社会復帰せーへんのや💢とイライラが募るでしょう。
当事者は自分の周りの大切な人たちがそんな何も出来ない(と思わされている)自分を受け止めてくれるのか?
何も出来ない自分に価値があるんだろうか…と悶々とし、'あなたにはあなたの良さがあるんだよ'と無期限に肯定してくれるのだろうかと不安を感じています。
親御さんへの究極の問いは、
"あなた自身がもし病気や怪我をして全く動けなくなったら、あなたはあなたのままでいいと思えますか?
そう思える社会ですか?"
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日本の労働環境は戦後激変し、人々が地域で生活していくための様々な環境は工業化された事で狭まり(自営業が激減)会社勤めする事が殆どの人々の生活の糧となりました。新自由主義社会で自己責任に拍車がかかり、仕事を得るためには学校に行って訓練を受けなければならないが、学校は高卒から大卒へとハードルが上がり、その為の資金は各家庭が支払えという流れに。貨幣を稼がなければ社会の一員として属する事が許されない社会になりました。
例えば貧困家庭であっても運良く元々の偏差値的能力で奨学金をもらう事が出来、高学歴を手にし、一流企業に就職出来ても心を病み自死してしまう人がいたり、
日雇い労働で日本のインフラを下支えしてきた人たちがホームレスになる様な社会です。生活保護は恥だと洗脳された大人たちが役人となり、そんな人たちを蔑みどこまでも排除する社会です。
(余談ですが…ひとり親家庭出身でたまたま偏差値的能力、身体的能力、コミュ力が高く、ラッキーな事に家庭がその本人の勉強や部活動を邪魔する事なく、
高学歴、ステータスのある職に就き、政治家になり日本に大きな影響を与えたのはオレ1人の力だ!オレすごい!お前らもオレを見習え…自己責任じゃ!の人が英雄になる社会です笑)
そんな社会だってわかっているから、そしてそれを我々大人たちが消極的にでも受け入れてしまっているから、だから子どもたちは不安なんですよね。
"不登校でもいい訳ないやん"
"みんなは学校行けてるやん"
"自分ぐらいやん、みんなが出来てる事が出来ないのって"
じゃあどうすればいいの?そんな事言っても現実は厳しいんだからそこで生き残るしかないって思うと本当に不安ですよね。
今は家にいてもいい。子どもが不登校なのは一時的なもの。きっとこの子はまた外の世界へ、社会へ戻ってくれる。それまではとりあえず休ませて受け入れるけど、社会人になって普通に自立(自分で稼いで自分で自分の面倒をみる)して欲しい…
または、
その子らしく生きて欲しい。人間には無限の可能性がある。日本の学校にいて、上の言う通りに動き、忖度し、指示待ち人間になるよりも、その子の能力を最大限に伸ばせたら…。自由な環境で主体的に生活出来たら…。
起業してお金を稼ぐ若者も増えてるし。究極お金が稼げたらいい…。
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"能力を伸ばせ!"(あなたなりの)
そんな親側の思惑を、子どもたちはずっと感じています。(だからうっせぇ!ってなってるんじゃないでしょうか?笑)
そもそも能力って一体なんでしょうね。
Cuddleでも話が出たのですが、能力主義って優生思想に行き着くよね、と私が言った時、運営メンバーがこう話してくれました。
"知的能力が高い人は、過去や未来を憂いて心が病んでしまうけど、知的能力が低いとされる人は、過去や未来を考えないで今この時を楽しむ事に長けている。その場の空気感を穏やかなものにする能力がある。世間で言われる能力とはとても限定されているものなのよ。
人類全体で見れば、様々な人を包括した社会の方が人類が存続する為の可能性が広がるし、地球レベルで見れば、自然を前にして人間なんてとてもちっぽけな存在で、自己責任なんかなくて、自然の流れに身を任せるしかないんだよね。"
私は我が家の子どもたちに対して、"この子たちが社会で自分らしく生きて、願わくば家庭だけではなく社会の中で居場所を見つけて安心して暮らして欲しい"と思ってます。人間は社会的な生き物ですから、承認されたい、と思うのは当然です。でも同時にこの子たちが何も出来ない状態でも、生きてていい、楽しい、と思える様な安心安全な社会を手渡したい、とも思うのです。何か成し遂げないと生きてる価値がない、とか、人助けをしてる自分すごいとか要らんのですよ。
自分の人生は自分だけのもの。自分が思うところの、心地良い環境で惹かれる事、夢中になる事や、楽しいなと思える時間を自分がしっくりと納得出来て喜びを感じる…そんな人生を子どもたちに生きていて欲しい。もちろん時には悩んだり、不安になったり、絶望感味わう事もあるけど、それすら自分にとって大切な人生のプロセスなんですよね。
私が子どもたちから学んだのは"子どもたちが安心して絶望出来るかどうかが家庭の役割"ということ。この安心して絶望出来る、は社会においてもそうあって欲しいので、内輪でちまちまと宣伝しています😆
逆説的ですが、"安心して絶望"出来てはじめて、その子にしかない能力が発揮されるのではないか…そしてそれが真の意味で実現されるためには大人たちが自分自身に、能力って何?を問い続ける社会であって欲しい、と私は願います。