すごい!…何が?
最近私は「すごい」という言葉に違和感を覚えることが多い。自分自身便利でつい使ってしまうけれど、その曖昧さがとても気になる。
この「すごい」という言葉、日本語でとても多様な印象を与える表現だ。もともとは「背筋が寒くなるほど恐ろしい」という意味だったらしいけど、今ではポジティブな文脈で使われることが多く、「物事の程度が並でない」「形容できないほど素晴らしい」という意味を持つそうだ。驚きや感動を伝える際に便利ではあるが、具体性に欠けるため、時には空々しく聞こえたり、幼稚な印象を与えることがある。また、何が「すごい」のか具体的に伝わらない場合、相手が「上から目線」で評価しているように感じることもある。
人から「すごい」と言われた時、何がすごいのか、何に対し褒められているのか、ただ驚かれているだけなのか、が分からない。なんだか適当に言われてる感覚もある。そもそも褒める行為は上の者が下の者を評価する行為なのだからたまに心が引っかかってしまうのかもしれない。
例えば、子どもが描いた絵を見せてくれる時、つい「おぉ、すごい!」と言ってあしらってしまうことがある。よく考えると真摯に向き合ってないよな、と思うし、すごいには具体性がなく、感想も伝えず空々しくなってしまう。だから「この色の使い方が面白いね」とか「この形がユニークだね」と言えば、もっと会話が広がり、深いコミュニケーションができるんだろうなと反省している。
自分自身が「すごい」と言われる事に違和感を覚えるのは、例えば私はおそらく処理速度が速いほうだが、それを「すごい」と言われると少し引っかかる時だ。私にとってそれは当たり前で、特に特別なことだと思っていない。「すごい」と言われると、相手が無意識に「あなたにそんなことができるなんて意外だ」というニュアンスを含んでいるように感じることがある。他者から評価されている時、ジャッジされている、軽く見られている、様に感じるのだ。
この「普通さ」とは一体何だろうか。私にとって「普段通り」と感じることが、他の人に「すごい」と思われるそのギャップ。「すごい」と言われた時に感じる違和感の原因は、私の普通と他人の、私への期待値や驚きのズレが、評価というよりも、上から目線で褒められていたり、見下されているような気持ちに繋がってしまうのかもしれない。
家族と初めて訪れたファミレスで、私がメニューをザッと把握して決めてしまう時、『イライラする』と言われた事があった。『こっちにはこっちのペースがあるのに、さっさと決めてしまうから、焦る』と。処理速度が速い事は必ずしもいい意味で捉えられる訳ではないから、むしろ、こんな風に苦言を呈された時に自分の「出来る事」をニュートラルに把握する事もある。
きっとこれからもつい「すごい」は口から出てしまうかもしれない。でも次からはなるべく「すごい」の理由も考えてから言う様にしたい。
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