みんなで生きるって
インクルーシブ教育は、ソーシャル・インクルージョン(社会的包摂)の考え方を教育の分野で実践していく取り組みで、障害の有無にかかわらず、誰もがともに学べる教育環境を目指します。
しかし、私はどうしても腑に落ちません。
インクルーシブ教育の理念は、“ひとりひとりの子どもに丁寧に向き合い、みんなで一緒に学ぶ環境を作ること“です。しかし、多様性を認めるという学びが出来るのは大多数の側であり、障害のある少数派の側が学びの材料にされる様に感じるし、少数派の側は常にアウェイに感じるという現状をどう対応出来るのか。
また、教育環境や社会の在り方や価値観そのものがインクルーシブなど言わずとも成り立つ様な状況でなければ、本来の理念を生かすことは難しいのでは?と思うのです。
例えばわが家の末っ子、保育園の頃サポートが必要な子どもの“お世話係“をさせられていた、イヤだった、とつい先日話していました。
「先生が決めてそうなった、わたしはその子が汚いことをするから(唾を吐くクセ)手を繋いだりするのは本当にイヤだったの。」と。そしてその末っ子もいわゆる非定型発達(一見わかりづらい)の子という闇深さ。
自然発生的にかかわる子どもたちもいますが、その様な場合も常にサポートし続けることは困難で、疲弊します。(大人でもそうです。)何故ならそんな多数派の子どもたちも発達途中にあり、そして現在の子どもたちのいる環境は、それでなくてもとてもストレスフルです。
精神的に未熟なのは子どもたちだけではありません。大人たちもストレスが溜まっていじめや差別となって表出しやすい現状をどう捉えたらいいでしょう?
また、少数派の子どもたちは「助けられなければならない存在」というスティグマに苦しんでいる場合があると思います。親がみんなと同じ通常学級での学びを希望することはあるかもしれませんが、それはその子の資質や地域、家族の価値観によるものもあります。
例えば、わたしの友人には脳性麻痺のお子さんがいますが、知的には問題がないどころかとても優秀で、特別支援学校や学級では彼の才能(偏差値的な)を伸ばす事が困難だという理由と、地域にお友だちが欲しいからという理由で並々ならぬ努力で通学されていますか、家族の負担が半端ありませんし、(何故なら法整備が不十分。この事は長くなるので割愛しますが)そのお子さんの偏差値能力が向上したとしても、精神的安穏や他の分野の発達や充足感はどうなのだろうと疑問に思います。
友人の故ケイン樹里安さんの言葉を借りれば、【マジョリティとは、気付かずにいられる人/気にしないでいられる人。】
障害を持つ少数派である子どもたちが多数派の子どもたちと同じ様に“特に何も考えずに共感できる仲間と共生社会を築く”ためには、多数派の側の並々ならぬ理解だけでなく、障害を持つ子どもたち自身の心の負担を考慮する必要があると強く思うのです。
インクルーシブ教育は理念としては素晴らしいです。ただ正しさを意識するあまり、逆に画一的で閉鎖的な教育環境や信念を押し付けていないか、行きすぎたポリコレになっていないか、を考えて欲しいと思います。
で、どうすればいいか。
わたしは月並みなのですが、自由の相互承認がカギなのかなと思っています。