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カオスは許されへんの?

映画『小学校』〜それは小さな社会(英語副題は日本人の作り方らしいけどw)が欧米で話題になっているらしい。その理由は、その国々が抱えてる「個人主義が行き過ぎて孤立してしまう問題」に対して、みんなで協力する大事さを再確認するチャンスとして見てるからなんやと思う。

欧米では、『自分が、自分が、』って、現代のストレス社会の矛先を個人主義的なものに偏りすぎて、周りとうまくいかなくなってることがあるんちゃうかな、とか、物質的なものに惑わされて、大切にしたい精神的なものが後回しにされてきたツケみたいなものを感じてはるんとちゃうかな…とか思うんやけど、映画で描かれてる“協力“とか、“みんなとの調和の大切さ“みたいな、表面的なところだけ切り取って、それを理想的に感じられたんちゃうかな…知らんけど。

でも、ミシェル・フーコーの考え方で見ると、映画が描いてる「協力」とか「調和」には、ちょっと、いや、かなり注意したい力の関係が隠れてるんよ。フーコーは、『社会でどんなふうに権力が働いて、みんなの行動や考え方を決めてるか』を考えた人なんやけどね。

『小学校』では、“みんなで協力することが大事“って描かれてるんやけど、フーコーの考え方で見ると、そのためには「ルール」や「民衆を見張ること」が強くなることがあるんよ。だから、“みんな“が「正しい行動」をするように教えられて、学校という囲われた場所でその規則に従うことが当たり前になる。ここで言うみんなって誰のことなのかも考えてみて欲しいんやけどね。

つまり、『小学校』で描かれる協力的なことって、一見良いことに見えるけど、実はその背後には「みんなが規則を守るべきだ」っていう強い社会的な圧力があるってこと。映画では、“みんなで協力すること“が美しさとして描かれてるんやろうけど、その裏では「こうしなければならない」という見えない、厳しいルールがあることや、そのルールの犠牲になってしまう“みんな“に関しては触れられてないんよね。

映画の中の「調和」や「一体感」の価値観は、学校(その先の社会)の規則に従わせるためのツールになってる。だから、「理想的な社会」や「良い教育」は、その価値観を守るための力を強化することに繋がってるとも言えるし、そもそもその理想って誰の?ってこと考えたいんよね。

つまり映画が欧米で理想的に見える理由は、個人主義が行き過ぎてしまった、カオスな社会を見て、みんなで協力して調和を大事にすることが必要なんじゃないかと感じたからやろうけど、その背後にある「見えない力」や「悪い面」をちゃんと考えてる人は少ないかもしれない。

ホンマに大切にしたいことって人によって違うから、ぐちゃぐちゃになった上履きも整理整頓された上履きも、結局同じなんやけど、その時に意識しておきたい事ってなんなんやろうね。

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