自立とは何か?正論はいらん
自立。一般的には、経済的な自立、精神的な自立、そして生活全般における自立が言われていますが、要は『カネを稼げ』『自分のことは自分で守れ』『家事全般をそつなくこなせ』ってことですよね。
でも、支援の世界では「自立」と言うと、「依存先を増やすこと」や「困った時に助けを求めること」として語られることが多いです。
そりゃあね、最初の自立の様に、何でも自分で出来る様になれば自己肯定感上がりますよ⤴️
または支援の場での自立の様に、依存先が複数あったり、助けてと言える先があるのは素晴らしいこと。だけど、『それが出来たら困らん。そりゃ正論やわ』って冷めた目で見てしまう。
でね、これらを否定する訳じゃないんですけどね、自立という言葉、なんだか呪いの様に社会を覆い尽くしてません?自立が生きることの目標というか、なんならしあわせより高い目標なんじゃね?って感じ。
例えば、必死で一人暮らしを続けることが“何とか“できる人たちがいる。彼らが日々生活していること自体、立派な自立です。でも、その生活は社会保障費(例えば生活保護費)や親の年金から賄われていたり、彼らが社会活動に携わっていなかったりすると、それは自立できていないと見なされる?
給料もらって生活していてもとてもしんどい思いをしながらギリギリ暮らしている人たちもいる。それって自立は出来てるけれどしあわせって言えるのかな?見えづらいことって見過ごされ、評価されることは少ない。
学校や家庭、社会で、「迷惑をかけるな」と育てられた人々にとって、助けを求めることは簡単な事ではありません。また、普段は支援側にいる人が助けを求めることは難しくて、『助けを求めることが自立の一環だよ』、と言われても、心理的な障壁が高すぎるので、そのハードルを越えるのは簡単ではないはず。
人って自分は助けられる弱い存在って感じたくなくて、助ける側にいる方が心地よいものです。でも人間がずっと助けを受けずに生きていくなんて無理だし、もしそんな『自分は助けられなくても1人で何とかやってきた』って思ってる人がいたら、それはとんだ勘違い。人は皆何らかの形で助け、助けられて生きてます。
「助けて」と言えない自分はダメだな…とか、「助けて欲しい」と言うと自分が崩れそうだと、自己否定してしまう事もあり…私もいまだにそんな事で悩んだりしてますね。ギリギリまで助けてが言えなくて、寝込む程具合が悪くなってはじめて助けてくれ〜って叫ぶ…。それくらい助けを求めることって心理的なハードルが高いんです。何でやろね。
『カネが稼げて』『自分のことは自分で守れて』『家事全般をそつなくこなせて』いる様に見える人たちが世の中のデフォルトだと思えば、自分がそう出来ないことが辛くなって当然なんだけど、それって本当なんやろか??
最近の講座で聞いた「貨幣労働」「社会や地域(ボランティア)活動」「家庭や趣味の時間」という三つの拠り所があれば、人は安定した生活が送れるという話。そりゃそうでしょうよ。それができるから安定するのか、いや、そもそも安定しているからそれができるんじゃ…って話なんじゃないかと。
そんな中で、そのバランスを取るのがそもそも難しい人もいるでしょうし、なんなら社会活動や家庭活動が経済的なリターンを生まない現状に、制度的な社会の問題があるんじゃないのかとすら思うんです。
私が目指しているのは、体調が悪かったら休み、一人で頑張っている人たちも、家族がいてもいなくても遠慮なく癒されるオープンな地域の場。1人でいてもいいし、誰かと繋がってもいい。誰もが気兼ねなく安心して助けを求められるようなマインドを社会に作ること。
また、社会活動や家庭活動が適切に評価される(経済的に)ような制度を作り、誰もが自分に合った形で日々を大切にし、幸せに暮らしていける社会を築いていきたい。
ありのままでいい社会って、がんばらなくても実現しなきゃ意味ないんですよ。とか言って私も含めてがんばりすぎやねんと自分にツッコミ入れてますが😅
自立は一概に定義できるものではないし、各人の状況や背景に応じて違う選択肢が当たり前に選べることが大切。そんな多様な自立のあり方を認めることが、より豊かで包摂的な社会を作るために必要な第一歩ではないでしょうか。
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