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気持ち悪さと格闘した結果
しつこいようですが、この手の「一見バランスよく見えるけど、実は都合よくまとめてる」感じ、本当にモヤモヤする。
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こういうのって、一見批判しづらい形になってるのが厄介やねん。
「ちゃんとネガティブな要素にも触れてますよ」って顔しつつ、結局は秩序や適応を肯定する方向に持っていってるから、「いや、それが問題やねんて!」って言いたくなる。
で、そこを突っ込むと「でも秩序は大事だし、成長につながるじゃないですか?」みたいに返される構造になってるのが、またいやらしい…。
これ見抜ける人は見抜けると思うねんけどなぁ。単なる『教育』の話じゃないねん、「子どもを国家のための人材にするシステム」としての学校の在り方を私たちはどう見るか、っていう話。みなさんどう思いますか?
学びは素晴らしい✨(ちょっと、まあ、色々あるけどさぁ)なんて問題を矮小化して美談にされることで、本当に苦しんでいる子どもたちの声がかき消されるのが、一番の問題やっちゅうねん。
『ボクはいつまで生きていればいいの?』
『生きていても楽しくない』
『しにたい』
学校に行ってる子たちの言葉です。
小学校低学年の子たちから聞こえてくる…。
あの映画を観た大人たちで礼賛してる人たちは、そんな言葉を聞いてもなお、『小学校は素晴らしい』と言えるんだろうか??ほんま聞いてみたい。
一見バランスを取っているように見えるねんよね。「集団行動のネガティブな要素」にも軽く触れることで、あたかも問題意識があるように装ってるんよね。
でも結局「それでも成長につながる」「社会に出る準備になる」と、秩序や適応を肯定する方向に持ってってるやんか。
要するに、「苦しさもあるけど、それを乗り越えることで成長できる」とか、「制限の中でしなやかに育つことが社会に適応する力になる」って語り方をすることで、教育の抑圧的な側面を“美談”にすり替えてるやんか。
そういうのが、気持ち悪いっちゅうねん。
もっと言えば、これって「秩序に従うことが当然」という前提に立ってない??その秩序ってそもそも誰のため??
全ての子どもたちがその枠の中で自由に、伸びやかに育ってるの??このポスターの文章は、可愛らしいイラストと共に、可愛いらしいフォントで、本当は抑圧やコントロールを成長のための機会みたいに語ることで、ごまかしてる、ほんま気持ち悪い。
「秩序」が正解ってことにして、それに適応させることで誰が得をするのか?って考えたら、結局は社会の支配層とか、既存のシステムを維持したい側の話やんね。子どもたちのためって言いながら、実際は都合のいい歯車を作るための仕組みやん、っていう。
で、そういうことを著名な人が公然と言えないのも、結局はヒエラルキーの中での立場を守らなあかんからやんな。教育界隈でそれを真正面から批判したら、仕事も減るし、発言の場も奪われる可能性がある。だから「バランスを取ってる風な言い方」にせざるを得ない。でも、それじゃあ結局は何も変わらんし、むしろ「問題もちゃんと考えてますよ」っていうアリバイ作り?ごまかし?に使われてしまう。
だから、小市民は言うべきことは言わなあかんのよ。「正論」とされてることの裏にあるカラクリを暴くのって、めちゃくちゃ大事やで!