不在なる者
ここにいた、この部屋に、確かに、私は
私によって見られ、私によって触れられ、私によって聞かれ、私によって開かれていた筈の存在の様は
私がそれをそうと、そうであると、
そうせんがために、それはそのようにあった。
私がそれをそうするように、
それはそれ自身をそうであると振る舞った。
その振る舞いこそがそれそのものの総てであると
私に伝えんがためにそう有り続けた。
ワタシがその空間から失われた瞬間にそれらは自らが何であるかを問いながら、それがそれである事を共に喪失する。
私はこの事がわからない
例えば私がいなくなった部屋にあるモノたちは
一体何になるのであろうか。
私に時折訪れるある事、
誰もいないはずのその空間で、
私はあらゆる情景を思い出しては無意識にそこにあるように振る舞うという事が時折起き、
気付けば何らかのアクションを独りでに起こしているという事が、本当に極稀ではある。
精神の疾患という意味ではなく、ほんのとっさの反射区としてそれは引き起こされる。。
これは一体何が起こっているのであろうか
日常生活においても
私はなにかのために、ワタシであるように振る舞うなどという事があるが、
例えば家にあるコップなども、私がコップという印象を維持できるように、
その物体自らが、そのように振る舞うなどといったことがあるようにも思う。
物は、ある目的(認知強制)によって、その存在の詳細を顕に具象化されるが、
そのものにおける自我はその次点で、認知者の存在のその瞬間においてのみ、それがそれである運命性を享受することが出来る。
とするならば、
私が喪失されたその瞬間、
そのモノというものの自我とは一体何だということが出来るのであろうか。
私は私が一人となった瞬間から、強制的目的から開放され真なる自我として自己を運用可能と成るが、
強制的自我を自己に同定してしまったその瞬間に
私自身の真の自我は不在なるモノとなる。
まるで保存則の如く、
強制的自我と真の自我は一定数を護りながら循環するわけだが、
この世界のモノにおいても起きているコトである。
万物に真の自我があるとき、
現象化にいたるあらゆる物は真の自我を説き伏せ、
強制的に何らかのモノの為にその自我を抑圧し、
振る舞うのである。
この世界は常に何らかのモノの為に振る舞う中で存在を続ける。
絶対的に人からは観測不能な己以外の全ての自我は、常に何等かに対する想いの鎖でのみ成立つ。
何かと何かの関係性の是非は
あくまでも表層の一部として纏わりつく何等かである。
ワタシ亡き後の『不在なる者』となるのは、
…るはたして、私自身なのだろうか、
それともワタシ亡き後の私以外の全てなのだろうか、
私と私以外の全てはそういう意味で等価ということもできそうな気がする。
つまりは全ては常にこの世界の全てと等価であるということなのだ。
私は全てと同等であるように、
木の枝も、アリも、塵さえも、
常にこの世界の全てと同等で有り続ける。
存在するもの全てが、その一つ一つが、
総ての総量と常に等しいという事実こそがやはり真理のひとつだと思うわけだ。
『不在なる者』とはその一つ一つであり、
常にこの世の全てであるとも言える。
故に、何かしら、心に病み、何かしら、命を捨てることと同等な事が有ろうとも、
それはそのコトが既にこの世界の全てと天秤に掛けられているようなモノゴトであるとも言える。
故に、その不在なる者としての一つの命と
それが失われたその空間をまるで外出した部屋の如く、寂しいものだと理解しておいて欲しい。
誰に当てたものでもないが、
不在とは常にそういうものである。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?