現象と神〜神の解体〜

以下は人類に対する提言である。

今を生きた総ての人のみならず、
過去にあった人族と未来を生きるであろう人族
すべてに対する提言であり、
この提言に当てはまることのない存在とは
せいぜい人族以外の種、動物、植物、虫、菌類、
ひいては鉱物、物質、現象と、
つまりは人以外の全てはこの対象から外れる。


万象の父にして
その意は無であり、それすなわち万有である
万有たる発生しうるすべての現象は構造の子であり、
その子らはまた秩序である。

父が目にしたものは、万象であったが故に
すべてを平等に捉えるものである。
何者をも隔てること無く、焦点を合わせることも無く。
であるが故に万物を淡いさざ波として捉えたのである。


父の子らがやがて生み出した世界は
すべて、構造と秩序のもと、反応を従え
総ての波に乗せ万物を構築していった。
これらはすべて意の無き反応のもと繰り広げられ
形成されていったが故に
その世界には一切の有機的反応は未だ生まれる事は無かった。


この世界には無機質的な神の存在がある。
コレは確実に存在する。

反応に宿り、原理に宿り、効果に宿る。

これらはそれそのものが俗に言う神の意を受け継いだ者たちである。

我々は、いや、人は、人の歴史は、神を知る。
知るがその神は既に混合されていた。

無機的神と有機的神と、
長い歴史で以下のような言葉が生まれた。

神は人を愛す、
人は神の似姿、
神の恩恵、
光あれと、

これらを下に
神と人との間、すべてに、人の歴史は構築されていった、
精霊、唯一神、象徴神、九十九神、
我々は芯なる構造を知らぬが故にコレに既に神と名付けていた。
そう、あくまでも名付けたのだ。

非凡なる知は真を知ること無く、
あろう事か無機としての神の恩恵を完全に無視し
自己愛に満ちる為の道を辿り、
自己愛を正当化させた。
それこそが神の愛であると。

まみれた心が許した神の声は、現象の一つとして起きた、或いは発生した意思だった。

審神者、神官らが受けた神の声は、良く喋る、
塗れた意識と同調しただけの意識達だった。
存在達だった。
現象の一部だった。

人族の発する神という言葉に、
その対象に完全なものという保証はどこにもなかった、
あくまでも自称であったこれらの声をまみれた心は精査なく信じ、国政に利用し、すべての物質社会を作り上げた。
そしてその神の意の世界が起きた。
まみれた世界は神の世界、そのものとなった。
金や物、唯物的なあらゆる物事は神の媒体となっていった。

この過ちは結果として数千年と続けられた、
留められること無く、咎められること無く、
総ての唯物的概念が有機的神を支え続けてきた。

確かに聖なるもの、真なる者、はその歴史に確かに発生したが、それらが明確に伝達されることはなかった、
その精神の形はそのものの中に留められ、そのものの中から出ることは無かった。
その精神の形を複製不能なまみれた心達はそれを犯し、
価値を見出し、書き換え利用した。

にも関わらず、それでも無機なる神はこれらを咎めること無く、また脅かすこともしなかった。

しかし、それは当然の事だった。

真なる神は、『何か』を見ること無く、全てを見続けていた。
ただ見続けていただけだった。
生み出した子らがどう動こうと、何を見ようと、また何に苛まれようと、救うこともなく、無論話すこもなく、
ただただ見ていた。
漠然的とは言え、我々は確かに見られていたのだが、見ていたのは、我々が起こす反応の一つ一つだった。
意に解すること無く、あらゆる挙動、反応、変化、
それらのすべては見られ続けていた。

その事を知らぬままに我々は生きてきた。
一瞬が永遠かのように捉え続け生きてきた。
我々の錯覚的歴史は永遠に在することなく、
何億年、何10億年、何百億年と続く中に一瞬だけ許されたものだったにも関わらず、その事への理解を放棄した。

そんな一瞬に一体無機的神が何を望むというのか、
また何を望めと言うのか。
それほどに神への要求と依存は留まることがなかった。

たとえそれが有機的神々だったとして同じ事、
限り無く続いてきた時間の中で発生した
たった2000年という一瞬を担ったにすぎない生命に
果たして神の歓喜は及ぶのだろうか
神の愛等が懸命に注がれうるのだろうか、
崇高な意識、精神性を伴うならば、まだ理解に及ぶが、
そうであったと果たして何人の人間がコレを立証することが可能なのだろうか、断言できる筈も無く、甚だしいほどに傲慢極まりなかった。
有機的神がいたとして本当に愛されるだけの資格が人類にあったと言えるのだろうか。
かと言って、神が堕落に対し罰を下すという事は無い、
神の罰は戒めは、従属心に繋がるこそその概念が必要とされただけだった。

生命の淘汰は、有機的神と一切の関係は無い、
勝手に滅びるように淘汰されるように、そのように既に組み込まれているものだ。
地殻変動、大気変化、海中濃度、気候変動、遺伝子の変異、既に備わるすべての超自然物の中にそのカオスが散りばめられたまま、すべては存在していたからこそ、あらゆる変化は起きていた。

人がその歴史においてのみ語った神、唯一神含め
その程度の神が総てを統括するとは到底認識し難く、
この事実こそがそもそも非常識。
にも関わらず、2000年を永遠かのように捉えた意識達はそれがあたかも事実であるかのように錯覚した。
錯覚せざるを得なかった。
人が人であるが故にこれらは可能となった。

人が神に対してとる姿勢がそもそも
限りなくおこがましく、
自己愛のみに満ち、
自らの理想により神を定義した成れの果てだと言うことを未だ理解することが不可能なほどに人の意識は絆された。

コレが人が、描き出した神と人との歴史だった。

もう一度いうが神は存在しないのではない、

神は総てを平等に
未来という時間、
成るという可能性の中で、
ただ見続けるものである。

無機的神の意と有機的神の言葉は異なる。

現象としての神は、既に万物に存在し
あらゆる所にその意を眠らせる。

それを読み解くかどうか、
それが我々に課せられた課題である。
本質的な神とは真理に加担するものであり、語らず、
示すのである。
意識の中にのみ示すのである。。
コレがそもそも我々に備わった道理の一つであり、
重要視すべき、現象であった。

だがその課題ですら、神は意に介することもなく
ただただ総てを見つめ続ける。

あくまでも我々とはその視野に入っただけの存在であるということを良く理解しなければならなかった。

そしてその理解の先に何があるかを、
何が生まれうるかを、歴史は求めなければならなかった。

我々は圧倒的現象の量の中に存在する。
だからこそ、その捉えうる意識は、
無機的神の意に向かうことが出来るのである。

現象の中に潜む総ての物理的道理の全ては
根源的神の意にのみ従う、
存在として今尚真理のそばに存在しつづける。
しかしそれは、やはり存在し続けるだけである。
どう扱うか、どうなっていくかも含め
現象の、事象の一つである。


神をどう見出すか
人の想発すべてに委ねらたからこそ産まれた過ち
その過ちもまた想発にすべて委ねられる。

神とはあくまでも幻想ではなく哲学だったのだ、
一つ以上に真は許されず、
ましてや矛盾が許される筈も無く。
何故神はなどという疑問が浮かぶこと自体が、
神の定義の破綻を指す事実なのである。

常軌を逸したその哲学が達する事実は確かに圧倒的狂いを見せるが、
総ての解はその先に生まれる。

言わずもがな、事実とは如何なる事実よりも狂っていた。

我々が知らぬ未知の物質原理の中に
総てを説明可能な事実が一つだけ眠っている。

それを導き出すまでにどれほどの時間と
歴史が向き合うかは知らないが、
真理は無機的神と常に並ぶ。

有機的神と真理は程遠く、

有機的神もまた、現象の一旦を担う子でしか無く、
我々と何ら変わらない一瞬を担う者たちである。

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