字と、秘密結社と、空間と
文字という特異性
そもそもが不思議である。
他者の内面にある空間を文字化し
また他者の内面に同一の空間を作り出す
当たり前に行われているこの奇妙な現象はなぜ可能なのか
それは勿論共通の言語認識が存在するからなのだろうが、
やはりそれを踏まえても、
それを武器に得られる効果はあまりにも特異的だ。
共通の言語能力を持つであろう動物含め、文字による伝達を駆使するのはやはり人類の特徴であるが…
これは共通の言語を用いる事で可能になる、
では、
記述履歴の無い言語については、これはやはり不可能性が浮かび上がってくる。
形の無い概念などは、専門的な言葉となり、
さらに謎とされるその先の世界ともなれば、言葉すら漠然とし、それを説明しようなどと試みれば文字数は多くなり、一見それは訳がわからない文となる。
また、意識、精神、などの枠組みは不明瞭であり
得体の知れない事象、例えば神や悪魔に至っては
領域も生成過程もカテゴリーも、その実体も、
よくわからないものであるからして、
同じ言語で、違う位置を指す事が度々見受けられる。
単語の持つ不正確性
私がこの単純な、神という言葉の意味する所に疑問を持ったのはずいぶん昔だった
ヤハウェも、キリストも、釈迦も、アラーも、
アフラ=マズダやナイアーラトテップなども含めた、
名だたる神話は勿論のこと、
狐、犬、蛇、
ましてや、土地、木、土、茶碗、箸、釜戸に至るまで
意識自体が対象とした神の名を冠する様々は実に様々だった。
この曖昧さの残る言葉を用いての対話には
多くの矛盾点が存在し、会話、又は対話内部に蔓延っている
言語生成
物事というものは元来
性質に特徴がおり重なり細分化されていく過程で
その一つ一つにおいての存在が存在し
またその一つ一つに名を与えるべき程の重要性のあるものだったのだとも思う。
はた又、得られた概念をより純化し、性質にまで還元し、名を与えて行くか。
結局の所はこのどちらでしかなし得ない。
過去の哲学者などの行いはそれに相当するものだった。過去の哲学者や、思想家の生み出した言葉の数々
果たして、その後、そういった概念を指し示す言葉は生まれたのか?
答えは否だ。
我々ははるか昔の言語を未だ使い回している。
noteをしてみてわかる、思う事がある。
この使い古された言語を用い、更に奥を探ろうとする
狂った輩の存在。
実に感服する。
一方で大学含めの教育現場のやる事と言ったら、
この使い古された言語の説明と、
過去の偉人の生を掘り返す起こす事で精一杯で、むしろそれに余念がない。
私からすればこれはただの墓荒らしと何ら変わりはない。
静かに眠らせてあげろよとさえ思う。
無論過去の教育は明らかに生きていた形跡があるが
いつからか全くもって死んだしまったようだ。
それがいつかなどという議論を大学内で繰り広げる事が出来るなら少しは蘇生も出来ようが、それも多くはないのだろうし、また私もそれを今更やろうとも思わない。
カクレイウは、名詞か、形容詞か、動詞かそれとも全てを兼ね備えた状態を指すのか、ともすれば秘密結社カクレイウとは如何な集団か、私はまぁ抜きにして考えて良い。
本題はここからだ、
①noteを通して思う
カクレイウという集団がある
カクレイウという集団が何であるのか、
さしづめこれはやはり秘密結社的とも言える。
秘密結社といえど、現代のどうでも良いそれではなく、
もっと古来のフリーメイソン的な印象を受ける
古来のフリーメイソンが行っていたのが
知の発展と保管であった事を考えれば、
note内でのこの行いは既に一部の個体内にして
既にフリーメイソン的であり。
それが集団かすればやはり侵食色は強くなり、
フリーメイソンを超えるベクトルになるのだろう、
しかし古来のフリーメイソンが侵食に至れなかった要因は宗教を冠した社会性にあり、
現代もまた、この社会性は『当たり前』や『常識感』
という熱狂的な信心深さで我々を殺してきたのは事実であり、やはり侵食の妨げという意味ではあの時期と全く同じ現象が起きているのだろう。
②そして文字を見ていて思う…
白と黒の織りなす空間に世界がある、と。
共有されない言語を超えて、生み出されている空間がある。
文というものは、体内で明らかに再生成される
他者の生み出した、空間を読み取るコードが自らに存在する時、共感が生まれる。
理解の難しい文でも、自らのコードを破壊し、組み直せば世界が広がる。
又は
一見関係のない文の、文字の並びが生み出す、深淵を自らのコードが読み取る事も有る。
そうやってカクレイウ達は空間を生成し、コードを作り上げている。
文による瞑想
例えばもし、コレらがなされるのであれば、
それ自体がこの世界を光り輝らせる、光沢を浴び
本来のイルミナティ的目的を果たす事が出来るのだろう。