火花〜人間と人体による消滅論
意識経験による世界の痕跡は火花に過ぎない。
一瞬光るそれは記憶され
意識の中にのみ永遠性を獲得されていく。
意識は、終わることでその獲得経験をゼロに戻し、
やがて身体はくちていく、
何も残らない。
世界はそもそも何も残さない、
残そうとしない、
あらゆる無機物も朽ち、風に晒され砂塵とかしていく。
長い長い年月の後に、
あるものは存在し、人の意図により構築され、加工され、この世界に忘却的概念性を隠しつつ永遠を装い晒し続けた。
意識を受け継ぐことで、
これら概念は歴史や文化により永遠性の的となったが
実際そうではなく、
やはり記憶の痕跡、火花に過ぎなかった。
この世界が何であるか、
その問いすらも、古代哲学から受け継がれる火花であったことは間違いのないことだろう。
あらゆる概念はもとより存在しない、
我々が作り、我々から始まり、我々が終わらせない限り、永遠性の中に存在し続けていく。
我々の滅亡とともにそれらは失われる。
我々の滅亡は全ての概念を終わらせる。
しかし、続いていく、
誰からも見られることなく、
もはやそれを何と呼べば良いのかは確かなものはなく。
受け継がれた概念の言葉なくしてはそれを表現することも出来ない。
かといってその本質性の全てを置き換える言葉もなく、
一部を捉える比喩ですら限界がある、
つまりその動態になぞらえられるものも無く。
その存在になぞらえられるものもなく。
あえて言うならば、
うねりと手のひら、
あらゆる動態と、流転と、流れと、発生と、消失と、残響と、
そう、我々は既に手にしていた。
文字通り、手のひらとはすべての根底の始まりであった
人間の
人体のその体、
あらゆる生命の形は同時に許され存在を可能とされたにも関わらず、世界に一種しか許されなかった種族として、
いくつかの霊長の種は、何を望み、何を捕らえ、何に蝕まれ長い時の中で消え去ったのか、
一種しか許されなかったその手のひらが表さんとしたものは何だったのか。
いや何故、その手はその手であったのか。
その手は、始めっからそういう意味ではなかったのか?
と言う気さえするが、
それは、それすらも受け継がれた思い上がる、永遠性を武器に印象されていることもまた理解している。
が、それとはまた違う、
一つの経緯、
あらゆる事の消失の先に成り立つ結果としての価値、
その唯一性、
恐らくその後続くであろう、文明、文化を介さない永遠性を冠する事柄として、
その続くであろうそれは、その手のひらの役割を担っていく。
我々は一時的な結果としてつなぎ続ける生き物であるが、その時代を担う霊長たる種には、あらゆる経緯を記憶する器官が備わる
人体とはあくまでも全記憶として存在し
これまでのすべての進化の経緯を備え、
関節、筋肉は、うねりを表現する、
その末端である手のひらはまさに、根底を意味し、深淵を意味する。
確かにこう考えれば
深淵を掴む事が可能な進化の中に人はあると言えないこともないが、
あくまでもそれは物体としての恩恵である。
本質的な存在として人間がそこに達していないことなどは
分かりきったこと
人間としての存在性が、人体としての本質性に届かない不気味さ、
本質を拒否しようとする意識の姿勢、その矛盾
単純に存在が、本質を拒否するならその存在は失われるのがこの自然の摂理の意味するところ
人類に現在許されたのはいわば消滅である。
しかし完全に滅さないのが、それを許さないのが自然であるが故に、我々は分解者の苗床としてこの世界に貢献していく。
台当者は、存在し、
今も生き続けている。
それがアーキアであるわけだが、
それについてはsize~Archaeaを読めば実感できると思うが
それらは古細菌と言ったカテゴリーの種では無い。
彼らは明らかに古代種であり、
台当者予備軍として存在し続ける者達だ。
無論ホモ・サピエンス等といった時間軸をはるかに超えた、60億年来の古代種。
たかだか数百数千年の意識の火花、
存在が本質を否定するなら種単位で分解者に回るのは定石
結果、手のひらを見よというわけだ。
人類が手にしたもの、その手が何であるのか、何のためにあるのか、本質は機能では無く、手が表さんとするもの。
長い時間の中で形成されたこの手が表せる全ての動態が、この時空における本質である事を理解するならば、
生命は人体と始めて並び、
存在は本質とともに歩き出すことが可能なのだろう。
人体が求めた進化に我々はまだ達していない。
意識のあり方、その自由性は無限にあり、
同定する形質、存在させる空間や時空も様々あり、
あらゆる状態にもはや成ることが出来る可能性の中で
見出すべきはやはり、その構造の意図のように思う。
それがいわばここにおける真理なのだろう。