縄文時代二分された精神性(とりあえず簡易版)必要なもののみを抜粋
次の弥生時代の記事を書くにあたりどうしても必要な事がありました、なかなか気分が乗らず書き出せませんでしたが、皆さんのおかげで気力が出てきたのでやっと続きを書き出します。
まず縄文に関して様々な情報が飛び交う中、後々重要となってくるのは、縄文時代の噴火問題。
まぁ噴火ばかりなので書き出すとキリがないが、
紀元前2万4000年前姶良カルデラの噴火から始まり鬼界カルデラの噴火によって縄文人が逃げる時代まで、精神は同一のものに括られていた。
ちなみにこれらのカルデラの噴火は凄まじく、鹿児島の近くで起きた大噴火は東北にまで被害を及ぼした。
精霊崇拝、これは全ての事象に対する信仰、火山信仰も含め、死に対する信仰も含め。
ある疑問が湧く、日本に残った縄文人が存在する、だからこそ、縄文文化が存在する、だからこそ精霊崇拝が存在していた。逃げず、死すら受け入れ、生み出すことの素晴らしさを知っていたからこその、縄文期の特徴。
それとは別に日本に残らなかった縄文人も存在する、恐れを覚え、死を恐れ、育まれた精神性から逃れ、生に執着したその精神は大陸を渡り、長い年月を経て、母国への帰還を望んだ、ただ一度の変化を受け入れた精神は、変化を覚え、何度も改変し、本来の精神性とは別物のそれを作り出し、私利私欲と大義名分を武器に、帰還しようとした。
それが渡来人という存在。
日本に残り古来の精神性そのままに、精霊崇拝、多神教の理を常としていた彼らの元へ、古の縄文人が帰還してきた時代、それが弥生時代の持つもう一つの可能性なのではないのだろうか。