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優しさの限界

一昨日、昨日と志賀直哉の話を書いていますが、さらに志賀直哉で書き続けます。本稿は2006年12月10日に私が某SNSに投稿した文章の再利用です。

自然主義文学が「人間の醜さ」を描いたのに対して、白樺派の文学が「人間の優しさ」を描いたということは9月11日の投稿で書いた。

だが「白樺派」と一括りに言っても、彼らの優しさに対する認識はさまざまである。
志賀直哉と有島武郎はどちらも白樺派を代表する小説家だが、2人の「優しさの限界」に対する捉え方は大きく異なっていると思う。

優しさには限界がある

皆さんは「優しさの限界」と聞いて何を思い浮かべるだろうか。

言うまでもなく、すべての人がエゴに生きているわけではない。
中には困っている人のために、見返りなど省みず献身的に尽くす人もいる。

「人が人を無償で救う」というのは見ていて気持ちの良いものだが、多くの場合、その善行の行われる背景には「行為者の利益が損なわれない」という無言の前提がある。
「自分の利益を損ねてまで他人を助ける」という人は極めて少ない。

どんなに聖人君子と謳われる心優しい人でも「優しさの限界」を知っている。
だが中には、この限界を見極めることができずに、何もかも失ってしまう人もいるらしい。有島武郎はそういう人だった。

有島武郎の「異様」な優しさ

皆さんは「年貢が重くて……」と言って苦しんでいる農民を見たことがないだろう。
それは戦後のマッカーサーによる農地改革の結果であって、1945年まではまだ「小作人が農地を耕して、取れた農作物を大地主に納める」という制度だった。
有島は北海道の大地主の息子として生まれながら、「大地主は大して働かなくとも楽をできて、小作人は一生懸命働いても貧しいまま」という社会構造に対して、疑問を感じたらしい。

悩みぬいた末、有島は親から受け継いだ土地を、無償で小作人たちに譲り渡してしまう。小作人たちは収穫した農作物を全て自分のものにできるようになった。
その結果、有島自身はというと、破産して自殺してしまうのである。
非常識なまでの優しさを発揮したゆえに、自ら滅んだといえる。

志賀直哉の「常識的な範囲」での優しさ


それに対して志賀直哉という人物は、ごく普通の常識人だったようだ。

志賀は『小僧の神様』で「貧しい小僧さんに寿司をおごってやるお金持ち」という人間の優しさをテーマに書いている。
しかし彼の優しさは、あくまで常識の範囲内だという気がする。

その証拠として、『灰色の月』という短編を挙げたい。
これは終戦直後に志賀本人が体験した実話らしい。

1945年10月16日。とにかく食糧のなかった時代である。
志賀は山手線内で、座席に反り返るように座っている餓死寸前の少年を発見してしまう。
周囲の乗客たちも悲痛な面持ちで少年を見つめていたが、誰一人、どうにかできるわけでもなく、押し黙っていたらしい。

どうすることもできない気持ちだった。金をやったところで、昼間でも駄目かもしれず、まして夜九時では食物など得るあてはなかった。暗澹たる気持ちのまま渋谷で電車を降りた。

志賀直哉『灰色の月』より

志賀も周囲の乗客も、「何とかしてあげたい」という気持ちは持っていたのだが、結局何の対策も講じずに電車を降りている。
志賀は
「金をあげたとしても夜だったので店が開いていない」
などと言い訳しているが、本当にその気になれば少年を救う道はあったはずである。

もしこの電車に有島武郎が乗っていれば、自分の財産を投げ打ってでも少年を助けていただろう。

しかし志賀を責める資格は誰にもない。
食糧難だったこの時代、ここで1銭の金を与えてしまうことが、明日の自分を滅ぼすかもしれないのだ。
同じ状況に陥ったとき、自信を持って「自分だったら少年を救える」と断言できる人がどのくらいいるだろう。

太宰治ならどうするか?

さて、近代文学マニアとしては、この話をもっと別の観点で広げてみたくなる。
「もしこの電車に、太宰治が乗っていたらどうなってただろう?」
という想像である。

太宰といえば、有島と同じく大地主の息子。
ただし有島とは違い、長男ではなかったので、土地を引き継ぐことも、その土地を小作人たちに明け渡すこともできなかったのだが。
もし太宰が長男だったら、有島と同じように土地を手放して破産していたかもしれない。

だが、太宰と有島ではキャラクターが全く違う。

太宰の「優しさ」に対する考え方をよく表している作品として、『たずねびと』という短編があるので、明日はその短編を手がかりに太宰の行動を考えてみたい。

というわけで、明日に続きます!
お楽しみに!

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