isi
私の周りには大切な人たちがいて、将来の夢もあって、まぁ何やかんや毎日楽しいと思える日々がある。自分の生き方に胸を張れるほどの自信はないが、いつの日かそんな日が来ることを信じて生きている。
自分の嫌なところは、荷物が増えるほどよく目に入る。自分にはない他人の良さに圧倒されて押し潰される。私は人の気持ちを読み取ろうとして伺うあまり、自分の思っていることを言葉にすることができない。いや、言葉には変換できているが、それを人に伝えることを躊躇している。
私はたぶん他人からの評価を気にしている。
みんなが自分のことを、自分の発言に対してどう思うのかが怖いのだ。相手を傷つけたくない、自分も嫌われたくないと思っている。様子伺いをすること自体はそんなにいけないことではないと思う。相手を想っているからこその感情であるからだ。なぜ私がこんなに遠慮をしてしまうのか。きっとその根源は自分の身なりや、周りに良いところを見せたいカッコつけたがりな性格が邪魔をしているのだと思う。
私は基本ポジティブに物事を捉えているが、自分を変えたいと思う一方で、まぁそこも特別悪いところだとは言い切れないと思っている。他人からの評価を気にする事で悩むこともあるが、上手くいったこともある。必ずしも悪いとは言い切れないのであれば、大きく自分を変える必要はないのだと思う。人はすぐには変われないのだから。
まぁそれも自分の一部かと受容し、自分の嫌なところを逆に利用してやろうかと思う。八方美人でも、自分の意思さえ持ち合わせていれば問題ない。言いたいことが言えなくても自分を捨てず、色んな考え方を聞いて自分はこう思うと結論づければ良いのだ。意見としてはっきり言い切れなくても、自分の考えの中に揺るがない軸があれば良いのだと思う。いつか、自分の言葉に変換して考えを共有できるような大人になりたいと思うが、なれなくても別にいいとも思う。
結局のところどっちでも良いのだ。この世界にはそんなどっちでも良いことがたくさん転がっている。私はそれを拾い集めては転がしている。それを見知らぬ誰かが拾ってまた転がす。これを繰り返す繋がりは心地のよいものだ。転がっている"それ"こそが、心の内面である。所謂、信念や価値観の部分である。相手の考えの全てを知ることは到底できないが、少しなら見える。感じ取れる。私はこれからも"それ"を拾い集めてはまた転がしてを繰り返す。他人の背景を知りその人を深いところから見つめる。これができれば問題ない。それがわかっていれば十分だと思う。