【創作小説】魂の在処 ⑩
☆☆主人公・葵とその義兄・薫の、前世を交えての兄弟愛のお話です。はじめから読みたいという方は、こちらからどうぞ☆
☆今回、区切りのよいところで切ったので、またすこし短いです(;'∀')
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病室のベッドに横たわる薫のそばで、葵は肩を落としたままうな垂れていた。生体モニターの規則正しい音だけが、部屋の中に響いている。少し顔を上げて、薫を見た。
青白い血の気のない顔。心臓をわしづかみにされたように息苦しくなる。
父さんはひどく心配していた。なにが起こったのか。自分にもまだ、よく理解できない。
なにか得体の知れないものに襲われた。そうとしか説明できない自分に対して、父さんはそれ以上なにも問い詰めたりはしなかった。ちゃんと、説明しなくては。
どんな風に?
知り合いが突然、物の怪になって襲い掛かってきた?
信じてもらえるとは思えない。頭を抱えた。なにをどう説明していいのか皆目わからない。不安な気持ちばかりが湯水のように溢れる。
点滴の管がつながれた腕に、そっと触れてみる。相変わらず冷たいその手に、心がひどく波打った。
病室の扉が静かにスライドして、白いスカートにGジャンを羽織った七海が顔を覗かせた。憔悴した葵の顔を見て、唇をきゅっと噛む。
「薫ちゃんの具合はどう?」
不安と気遣いが入り混じった心もとない声色。葵は無理やり、笑顔を作ろうとした。
引かれた白いカーテンの隙間から、日の光がぼんやりと差し込んでいる。いつのまにか、夜が明けていたことを知った。
「うん、先生が言うには、命には別状はないって……大丈夫だって」
七海は、目を潤ませ「よかった」と呟く。
「葵、顔色悪いよ。寝てないんでしょ? おじさまは?」
「薫の着替えとか、そういうの、実家に取りに帰ってる」
「そっか」
答えながら、七海はパイプ椅子を引っ張り、葵の隣に腰をおろす。太ももの上に乗せた手をきゅっと組んだ。
「葵からメールもらって、びっくりした。葵ってあまりメールとかしてこないから、なにかよくないことでもあったのかと思ったら、本当にそうで驚いちゃった」
葵は苦笑いしながら頷く。
「心配かけるってわかってるのに、ごめん。なんか、気づいたらメール送ってた」
ううん。七海は軽く首を左右に振った。
「むしろ、頼ってくれてうれしいよ。それより、なにがあったの?」
「オレ、の」
「え?」
「オレの、せいなんだ。オレが受身でいたから――」
あのとき。とっさのことに、金縛りにあったみたいに動けなくなった。ちゃんと、逃げていれば。オレがもっと機敏に動いていれば。
「なにかに、襲われたの? ここ、山奥だし、昔はよくいのししとか熊とか出たし。あ、まさか、わたしに襲い掛かってきた奴と同じ?」
「いや――多分、違うと思う。あれは」人とは思えなかった。
そうだ、普通の人とは思えないような井出達だった。
「……人が物の怪に変身して、襲い掛かってきた……なんて言ったら、信じてくれる?」
七海は、目を大きく見開いた。
「ごめん、冗談言ってるわけじゃ」
「信じる。葵の言うことなら、ちゃんと信じるよ」
真摯な眼差しに、目尻が熱くなる。
「そういえばあの一連の事件もまだ、解決してないんだったよな」
うん。物憂い表情のまま、七海は頷く。
「だけど、わたしが襲われたときのあれも、物の怪だといえばしっくりくるかもしれない。ね、葵。さっき、人が物の怪に変わったって言ったけど――それ、知ってる人だった?」
そう問われて、考えた。あれは本当に早乙女纏だったのか。いまだに自分でさえ、よくわからないのだ。オレに襲いかかってきたのは、本当に早乙女纏だったのか。それとも。
躊躇していると、七海は葵の肩に優しく手を添えた。
「ごめん、言いにくいことなら言わなくてもいいから」
その優しさが今はとても嬉しかった。
七海は、眠っている薫の顔を見て、小さく息をつく。
「けど、薫ちゃんが大事に至らなくてよかった」
頷き、薫の白い顔を見下ろす。あのとき、とっさに自分を庇ってくれた薫の腕が目の前にちらつく。
「――ずっと……」
「ん?」
「オレはずっと、薫に疎まれているんだと思ってたんだ」
七海は目をぱちくりさせた。
「なんで? どうしたのよ、突然」
「……四年くらい前に――ちょっとあいつといろいろあって、そのときに、あいつに」
まだ幼さが残る兄の幻影が、ゆらりと口を開く。
『誰でもいいから、憂さ晴らしがしたかっただけだ』
心臓を殴られたような痛みを覚え、無意識に両腕で体を抱えた。
「葵――」
名を呼ぶ七海の声がかすれた。
「なにがあったのかはわからないけど――でもね、葵。薫ちゃんが葵を疎ましく思ってるなんてこと、絶対にない。それだけは絶対にないから。なんだったら、一千万かけてもいいよ」
そんなことを言いながら、七海は明るく笑った。
「ずっと子供のころさ、ほら、まだ葵が御巫の家に来て間もなかったころね。葵、感情がないんじゃないかってくらい、何にも反応しなかったときがあったでしょ」
「……あった、のかな」自分のことなのに、よく覚えていない。あのころは、一度に家族を失って、どうしていいのかわからなかった。母は、兄を連れて無理心中したと聞く。兄は連れていって、オレは連れていきたいとは思われなかった。捨てられたんだと、勝手に思い込んでた。
「あのころさ、薫ちゃん、すごく葵のこと気にかけてたんだよ。いつも葵の話ばかりするし、葵のことばかり考えてたし。小学校にまではさすがに着いていけないからって、いつもわたしに『葵を頼む。葵のそばにいてやってくれ』って、うるさいのなんの」
七海は、眉間に皺を寄せたまま、苦笑いする。
「そっか……だから七海はいつもオレのこと、気にかけてくれてたんだ」
「いや、まあそれもあるけど、そうでもない。それだけじゃないよ」
「なんだよ、それ」
「んー、とにかく」七海は恥ずかしいことを隠すように、両手をぱたぱたと胸の前で振る。
ベッドの上で眠る薫の青白い顔を、まっすぐに見つめた。
「この人が、葵のこと嫌いとか疎ましく思ってるとか、絶対にないから」
そうなのかな。そう呟く言葉は、うまく声にならなかった。四年前のあのとき、あんなふうにいってオレを突き放したのも薫。身を挺してオレを守ってくれたのも、薫だ。
「大丈夫だよ」
七海の腕が、葵の肩をやさしく抱き寄せた。こめかみ同士をくっつけるようにして、葵の頭をそっと抱く。
「大丈夫」
抱き寄せられたその掌から、優しい思いが伝わってくる。零れ落ちそうになった涙を、慌てて指でぬぐった。
そのとき、薫の口からくぐもった声が漏れた。葵と七海は、同時に薫のほうへ身を乗り出す。
「薫ちゃん?」
七海が大きな声で呼びかけた。
切れ長の瞳が、瞬きを繰り返しながら、ゆっくりと開く。そばにいる二人の顔をとらえた。
「薫――」声がひどく掠れた。
点滴につながれた腕がゆっくりと伸びてきて、葵の頬にそっと触れた。
「……怪我は、ない?」
力のないくぐもった声に、頭の芯がぴんとしびれて、心のなにかが今にも切れてしまいそうになる。頬に伸びてきた薫の腕を、しっかりと捕まえた。
はじめてだった。四年前のあの日以来、自分からこいつに近づいたのは、初めてだった。
「ごめん」
頼りない声が零れ落ちる。
薫が目を見張る。
「ごめん、ごめんなさい」
言葉と共に、嗚咽が混じる。言いたいことが、気持ちが、あふれてくる。なのに、なにひとつ言葉にできない。唇をかみしめたまま、頬に触れた薫の手を力いっぱい握りしめた。
ハシバミ色の瞳が凪ぐ。自分の手をきつく握る葵の指先をやさしく握り返す。
「……馬鹿か、おまえは。そんなの、謝らなくていい」
二人のやりとりを、七海はやわらかな顔で見守った。
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