斜陽と源流のマラッカ
マラッカ②
交易都市マラッカ大きく分けて東西二つの区画がある。
街の真ん中を流れるマラッカ川の東側は「マラッカの丘(ブギッ・ムラカ)」を中心とする歴史地区。
一方の西側はジョンカー・ストリートをメインストリートとする華人街。
歴史の凝集点マラッカの丘
マラッカの丘の西側にはスタダイス(スタッド・ハユス)と呼ばれる旧オランダ総督府があり、目の前にあるオランダ広場を中心に観光客で賑わっている。
丘に沿って東へ進むと、建築博物館やイスラーム博物館など博物館が建ち並んでおり、最後にサンチャゴ砦とマラッカスルタンパレスがある。
マラッカの丘の頂上には、サン・パウル教会の跡が残る。
この丘の周辺だけで、マラッカの歩んできた歴史を見てとることができる。
マラッカを中心に、マレー半島と現在インドネシア領のスマトラ島に支配権を持つマラッカ王国ができる。
この王国は各地との貿易を保護した。そしてマラッカは一躍東西貿易の要となり、発展していった。
大航海時代になると、ポルトガルが進出し、マラッカを占領。ポルトガルの貿易拠点とした。サンチャゴ砦やサン・パウル教会はこの時の遺物だ。
だがその栄光も長くは続かず、今度はオランダがこの地を制圧した。スタダイスやオランダ広場はこの時に出来上がった。
最後にやってきた英国は、マラッカ海峡の交易圏を確実にするために、ある策を講じた。
オランダ領のマラッカを挟み込むように、ペナン島・シンガポールを開発たのだ。
最終的に英国はマラッカを獲得したが、マラッカの繁栄は凋落してゆく…。
要するに、マラッカの丘の周りにあるのは「つわものどもが夢のあと」ということになる。
特にその色合いが濃いのはポルトガルが残した遺産群だ。
夢のあと
丘の麓、南側には崩れかかった「サンチャゴ砦」がある。
これはもともとマラッカ市壁を取り囲む要塞の一部だった。
白の漆喰は剥がれ中のレンガが露出している様はなかなか凄みがある。
だが、丘の上のサンパウル教会には劣る。
こちらは屋根がない吹き曝しの状態で残っており、地面に置かれていたであろう墓石が壁に立てかけて置かれている。
鐘楼は再建されているものの、教会としての役割は果たせそうにない。
私のいた大学はフランシスコ・ザビエルが有名なイエズス会により建てられたものだった。
その導きがあったのか、ここ最近、長崎、マカオ、ゴアとポルトガルゆかりの地に訪れていることが多い。
特に意図はしていないのだが、今回もマラッカに来てしまった。
そこで思うのは、マカオのサンパウル天主堂にせよ、ゴアのサンアゴスティノ教会にせよ、天井が崩壊して、そのまま残された教会をよく見る。
それがポルトガルの証というのは彼の国に失礼だが、大航海時代の栄華とその後の没落という運命が凝縮されているように見えてしまう。
教会跡の近くには、フランシスコ・ザビエルの像がある。
マカオ、ゴア、そしてかなり前に行ったローマと、これまた期せずしてザビエルの墓巡りをしてきた私にとっては、なんとなく感慨を覚えざるを得なかった。
丘の反対側の麓にフランシスコ・ザビエル聖堂があるのだが、こちらは改修工事では入れなかった。
その教会には、ザビエルとマラッカの地で出会い、日本宣教のきっかけとなった人物ヤジロウの像もあったらしいのだが。
丘の上からは街が見渡せる。
夕陽の時に訪れると、街を赤く染めながら、海へと沈む巨大な太陽を見ることができる。
それはポルトガルのようであり、マラッカという街そのもののようでもある。
哀愁のポルトガルセトルメント
マラッカの丘の東へ30分ほどずっと歩くと、ポルトガル人居留地というところがある。
この辺りは街の中心から離れ、静かな地域だ。
ポルトガル人居留地へようこそ、という看板をくぐっても、その静寂は変わらない。
ただ、街ゆく人の顔立ちが、今まで見てきたマレー、インド、華人のいずれでもない、どちらかというとアフリカ系の顔立ちをした人が増えていく。
壁にはイエスの絵が飾られていたり、確かにここはポルトガル人の居留地なのだと実感する。
居留地の中心は、海峡沿いの広場だ。
ブラジルのリオデジャネイロにあるものと同じ、両手を広げたイエス像が置かれ、あたりにはポルトガル式海鮮料理を歌うレストランが集まっている。
昼時に訪れたのだが、それにしても人がいない。
観光地として計画されているようだが、マラッカ中心地の賑わいを知っていると、そこに悲哀すら感じる。
かつてマラッカを征服したポルトガルの人たちが、いかにしてここに集まり、いかにして生き延びてきたのか。
気になるところである。
観光資源となるオランダの遺産
一方のオランダ広場は常に賑わっている。
この広場に面する建物は皆オレンジ色である。
古くからあるスタダイスがオレンジ色なのだから、きっと昔からそうなのだろう。
広場にはとにかく派手な飾り付けの自転車タクシー(トライショー)がたむろしていて、とにかく爆音で音楽を鳴らす。
客のリクエストをとっているのか、洋楽や中国の音楽をかけている時もあれば、マレーシア人らしき人を乗せるときはマレーシアの演歌やマレーシアの古いロックを垂れ流している。
正直、旅人としては、マレーシアの音楽を流してくれている方が気分が上がる。
オレンジの街並みは完全に観光化されていて、旅行者向けのバーやカフェになっている。
夜になるとネオンが灯り、音楽が響き、観光客の盛り場になる。
あるいは、古くからある公的施設のような建物は、博物館が入っていることも多い。
私はその中で、建築博物館を訪れた。
理由があったわけではなく、目に入ったのと、私が建築に関心があったというその2点だけである。
この博物館ではマレーの伝統家屋から、現代のクアラルンプールのペトロナスツインタワーまで広範囲に扱っている。
マレー人、原住民、華人、インド系住民のそれぞれが、宗教的な観念に基づいて家を作っていることの説明が興味深い。
思えば日本でも地鎮祭を行ったりするし、建築はなんらかの宗教行事でもあるのかもしれない。
また、近代以降、建築が国家事業となる話も興味深かった。
例えばクアラルンプールのツインタワーは上から見ると八芒星の形をしており、イスラームの伝統では調和を意味するそうだ。多民族国家にとって、調和ほど重要なものはない。
建築博物館自体は、オランダ統治期の建物を使用しており、その内部を見ることができるのも良い点である。
どうやら他の博物館も、目玉は建物のようだった。
マレーの源流
だが、マレーシアという国家からしてみると、こうしたポルトガルやオランダの遺物は征服者によるものに過ぎない。
川沿いに残る砦の説明を見ても、「マラッカ王国はすべての商人を保護した」が、他のポルトガルやオランダは、自国の利益ばかりを求めた、という記述があったりするが、そこには一つの意図が見える。
つまり、マラッカ王国こそが自分たちのルーツなのだ、というものだ。
マラッカの丘の西側の麓に、マラッカスルタンパレスという施設がある。
「マレー王統記」という書物を用いて、マラッカ王国の宮殿を再現したものらしい。
要するに古い建物ではない上に、入場料も20リンギッ(700円ほど)と他よりも高い(建築博物館の4倍である)。
だが、わざわざ再現している、というその執念に関心を持ったので入ってみた。
また建物はマレー独特の高床式の建造物だが、破風が前方に七つ、上に楼閣のようなものが一つ建っており、威容を誇っている。
原料は木材で、強い日差しを避けられるから、中は涼しく感じる。
靴を脱ぎ、中に入ると、マラッカ王国の建国神話、統治体制についての展示と、王の謁見の間を再現したスペースがあった。
マラッカ王国は、中央集権体制というよりもむしろ、幕府のようなものであり、政治も家臣との合議によって行われたという。
現在連邦制をとるマレーシアと連続するものなのかは置いておいて、マラッカ王国を自分たちのルーツとみなすのはなんとなく理解できる。
宮殿は平屋ではなく、展示も二階に続いている。
二階にはマラッカ王国にまつわる伝説がいくつかジオラマを含めて説明されていたが、前提知識がなく、なかなか難しかった。
一階におりると、マレーシア各地の伝統衣装が並んでいる。
似たようなものもあれば、英国によって開発されたペナン島などは洋装をしていたりと変わった点もある。
なかなか見ていて面白い。
そもそも、マレーシアやマレーという言葉自体、マラッカに由来するらしい。
語源的にも、マレーシアの源流はマラッカなのである。
マラッカ川の北には古いマレー式住居が集まる集落がある。
ポルトガル人居留地同様「郊外」ではあるが、実際に行くと、外国人よりもマレーシア人で賑わっているのがわかる。
マラッカは、歴史の要所であるとともに、マレーシア人にとっては、郷愁を感じるところなのかもしれない。
***
マラッカ川東岸は歴史に思いを馳せるには良い場所だが、この街の華はやはり華人街だ。
だが、華人街については、また今度お話ししよう。