自分探しの旅は無意味なのか?
「自分探しの旅」というと、若者がやりがちな無意味な行動の一つとして槍玉に挙げられることが多いように思う。
インドに行っても行かなくても、アメリカを横断してもしなくても、「自分は自分」なのだから、そんなことに金と時間をかけるのは勿体無い、と。
だが、「自分探しの旅」は果たして単に空虚なものでしかないのだろうか。
少なくとも私にはそうは思えない。
自分は本当に身近な存在なのか?
私は私である。
そんなことは当たり前のことだ。
少なくとも、多くの場合、当たり前だと思われている。だけど果たしてそれは当たり前のことだろうか。
私たちは、様々なコミュニティに属し、様々な「顔」を持っている。
学校、職場、友人関係、親子、先輩後輩、赤の他人、あるいは一人でいる時…。そのいずれも全く同じ「顔」だ、という人はあまり多くはないだろう。
私たちは「場」に応じて、「顔」を多かれ少なかれ使い分けている。
もちろん、「顔」同士がどれくらい異なるのかは、人さまざまで、全くもって異なる人もいればほとんど変わらない人もいるだろうが。
それはいわゆる「キャラ」のようなものかもしれない。そこから逸脱したら「らしくない」と言われるようなものだ。
それは他人の視線が作り上げたものかもしれない。特に会社などでは、会社用の自分でいなければならないという圧力を感じることもある。学校や、親子関係も同じだろう。
あるいは、それは自分で決めたものかもしれない。格好つけたり、背伸びしたり、もしくは、甘えてみたり。自分で自分の立ち位置や見栄えを変えることもある。
もちろん、無意識的に、ある一つの「顔」でいつづけることもあるだろう。
こうした「顔」は、基本的に対人関係や、もっといえば空間的な場所などを含む、広い意味での「場」に従属している。
まるで役者が舞台上でその役を演じ続けるように、私たちはある「場」では一つの役を演じ続けざるを得ないし、演じ続けてしまっているのである。
自分を見失うとき
ある「顔」で過ごすということは、なんらかの一貫性を持つことでもある。
真面目な会社員はどこまでも真面目でいないと「らしくない」と言われるし、逆に言えば遊び人が真面目なことをすると笑われる。
家族といる時は家族のメンバーとして振る舞わなければ変な空気になるし、友達と居ても同じことである。
もっと広い日本というでかいムラ社会でも、同じく「普通の」日本人であることを要求されることが多い。
だが、突然、何もかもが「違う」ように見えることはないだろうか。
「君はこういう人だろう」と言われた時、本当かな?と強く疑念に思うことはないだろうか。
ある限られた「場」に従属した「顔」でいることにほとほと疲れ果てていると感じる時が。
常に身近であるはずの「自分」を「見失っている」と感じる時が、ないだろうか。
おそらく、私たちは、自分で思うほど、自分とは何者かわかっていない。そして、自分というものは、社会で想定されているほど、一貫性があるものではない。
ほんの小さなきっかけや、ほんの一瞬で、今までの行動パターンをガラリと変えたくなる衝動に駆られることもある。
あるいは、自分の胸の奥から聞こえてくる声を圧殺して生きてきたせいで、他者が要求する一貫性が、自分の身の丈に合わない、まるで靴擦れを起こしているような状況にあることもある。
「本当の自分」なるものが、社会生活の「場」における「顔」とは別のものとして、確かに心の底に存在している、とまでは言えないかもしれない。
だが、確かに、他人の視線や空間に、なんらかの窮屈さを感じたり、抜け出したくなることがある。
全くの別物というより、心の奥を流れる水脈のような何かが。
自分探しの旅へ
そんな時、場所を変えることが案外重要になってくる。
いつも「自分」が従属している「場」は、人間関係と切っても切り離せないと同時に、空間とも強い関わりがある。
家、地元、職場、学校…。そこにいれば安心感はあるかもしれないが、何かを見失い続ける可能性がある場所である。
だから、「自分探し」をしようと旅に出る人は安心感を捨てて、「ここではないどこか」へ向かおうとするのだろう。
「自分らしさ」を要求してくる知人も、家族も、同僚もいない場所へ。
ただ一人の旅人として、普段の行動パターンをあえて変えて見ることができる場所へ。
そして、吸い慣れた空気の存在しない場所へ。
「自分」は身近な存在のようにみえて、思いの外、自分でもわからないものだ。
「場」から切り離されて、旅の恥はかき捨てと、様々な「自分」の可能性を試したり、あるいは全てを滅却して広い空や海や山を眺めたりする中で、少しずつ、何かが見えてくることがある。
本当はそれも誤った自分像かもしれないが、それでも、やってみることで、見失った自分を見出し始めるかもしれない。
だから、私は思うのだ。
自分探しの旅は、あながち変なブームではない。十分やってみて損はないことだ、と。
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