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準備しない

この世界には2種類の人間がいる。
旅の準備を入念にする人と、全く準備しない人だ。
私はといえば、旅の準備は極力しないようにしている。

城を目指す

以前、松本に行った。
長野県の松本である。

事前に、松本といえば城だ、という言葉だけ聞かされていた。
どういう城なのかなどは全くわからないが、そんなに言われたら行くしかない。
私は駅に着いてからまっすぐ城まで歩いた。

私は歴史に関心がある方である。
だから、城があると聞けば、大抵の場合は行く。
何があるかわからなくても、大抵の場合は行っている。
かといって、城目当てで旅しているか、と言われると違う。

震災に戦災、明治になってからのあれこれで、日本の城はほとんどが再建され、外壁以外は博物館と化している。
だから、国内で城に行くときは、城目当てというより、展示目当てのことが多い。
展示を見れば、その街のことがわかるからである。

知らないからこそ

今回も、そんな感覚で、「松本はどんな街なんだろうか、何藩だったんだろうか」などと思いながら、城の敷地に入った。
すると、今まで、広島や高松などで城に行った時と比べて、やけに人が多いことに気づいた。
やっぱりここの城は人気なのだなと思いつつ、列に並び、しばらくたって、私は大きな間違いを犯していたことに気づいた。

松本城は城もどきビジターセンターではなく、正真正銘、戦国時代の姿を止める現存する最古の城だったのである。
きっと、事前にあれこれ調べている人からすれば、「何を今更」ということになるだろう。
だが、現地で城の、本物の凄みを目の当たりにしながら、このことに気がついた時の感動は、並々ならぬものがあった。

国宝=古いままで現存、という常識を、この日知ったのである

理解されないかもしれないが、こういう偶然の出会いはなにものにも代え難いところがある。
事前に準備をしてしまうと、ある種の「ネタバレを食らう」ことになってしまう。
それが何だか、勿体無い気がしてならないのだ。

あたふたを受け入れたい

とはいえ、こういうやり方には失敗がつきものだ。
「旅のしおり」を作る人たちが経験するはずのない失態が必ず起こる。

以前、千葉北西部に行った時のこと。
佐原という古い街へ行き、さて銚子に行くぞと勇足で駅へと向かい、愕然とした。
あのあたりは、いわゆる首都圏でありながら、鉄道が1時間に一本しか来ないのだ。
調べていればこんなことは起こらないだろう。

電車を逃したおかげで見ることができた鳥居

日本ならまだしも、言葉の通じない異国の地でも失態は起こる。

スペインのビルバオに行った時、ホテルをとっていなかったので、適当なホテルを探した。
ところが、どこも一杯だった。
どうやらその日は「グラン・セマナ」という夏祭りの前夜だったそうで、祭り目当ての人たちがたくさん来てきたようなのだ。
結果的に、少々高いホテルが一部屋だけ空いていたため、ちょっとした「勉強代」を支払うだけで済んだが、危うく野宿だった。

グランセマナの前夜祭

きっと、旅の入念な準備の理由の一つは、こうした旅先の「あたふた」をなくす、というものだろう。
もちろん、あたふたしている最中は本当に最悪な気分だが、私はやっぱり、こういうあたふたが嫌いではない。
思い切り失敗して、「ああしよう、こうしよう」とその場で策を練るのも面白かったりする。
そうすることで、世の中に転がっている多くのトラブルは、解決できないものでもないのだ、という気概も生まれる。

心のままに

だが何よりも、準備をしないで旅に飛び込む良さは、「予定に縛られない」ということにある。
あらかじめ「ここにいく」と決めると、予定ができてしまう。
回り道や、全然関係のない方向に行く余裕がなくなってしまう。

「この道の先には何があるんだろう?」
「あの建物はなんだろう?」
「あそこから音楽が聞こえてくるけれど、何かやっているのだろうか?」
そんなふとしたきっかけに、心のままに従って歩いてみる。
そうすることで、日常生活では遮断している何かを育て、深め、蓄積することができる。
あらかじめわかっていることではなく、その場で見えてきたものを、旅先くらいは大事にしていきたいし、私にとってはそれが旅の大きな目的でもある。

いいことであれ、悪いことであれ、偶然の出会いは面白い。

そんなわけもあって、私は旅の準備をしない。
もっとも、先のことまで頭が回らない、というのもあるのだが。


#旅の準備

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