どこでも住めるとしたら、まずは場所選びの旅に出る
「なんか、違う気がする」と、自分にしっくりくる、自分が住みたいと思える場所を探して、世界へと飛び出したのは20代の頃。
パナソニックさん×noteさんの投稿コンテスト、「#どこでも住めるとしたら」を見た時に、そんな昔の自分を思い出してしまった。
「住めば都」という言葉があるように、住み慣れれば、誰でも、その土地に愛着ができて、居心地がよくなったりする。
だから、離れたところから、「どこ」に住みたいかを決めるのは、難しい。
人から聞いた話も、本や各種メディアで読んだことも、画面越しに動画や写真で見た景色も、自分にしっくりくるかどうかを決める材料としては、どこか足りない。
実際にその土地へ行って、自分の五感、いや第六感も含めて、直接感じてじゃないと、決められない。
「どこに住んでどんな暮らしをしてみたいか」の「どこ」x「どんな」の組み合わせから生まれる可能性は未知数で、住む場所としての良し悪しを決める評価は、自分次第で、どんな風にも変えられるからだ。
私は、世界のいろいろな国を旅したことがあって、フィジーに2年、ニュージーランドには20年以上暮らしている。不便な生活が楽しい時もあれば、経済的に安定した生活が苦しい時もあるから、居心地のよい暮らしの定義は難しい。
ひとりぼっちの時に人とのつながりをより強く感じることもあれば、大勢の人たちに囲まれている時に、より強い孤独感を感じることもあるので、自分にとって心地よい、街やコミュニティの定義も難しい。
大学で地元を離れて、関西で一人暮らしを始めたのが30年以上前。あれから、今日までに、日本、フィジー、ニュージーランドで、何度引っ越しをしただろう。
いろいろな土地で、違う文化や生活スタイルを体験してきたからこそ、 「もし、場所の制約がなくどこにでも住めるとしたら、どこに住んでどんな暮らしをしてみたいか」
と聞かれたら、私は、
「自分にしっくりくる場所を探す為の旅に出る」
と答えるだろう。
普段から、何を選ぶのにも時間がかかる自分のことを知り尽くしているだけに、「場所の制約がなくどこにでも住める」と言われたら、住める可能性がある、ありとあらゆる場所へと旅をする自分に想像がつく。
例えば、ギフトを選ぶ時なら、値段やカテゴリーという制約の範囲内に当て嵌まるものを全てチェックしてから決めるし、特定の本を決めていない状態で、図書館で借りる本を選ぶ場合も、時間の許す限り、興味のある分野の棚の端から端までタイトルをチェックして、気になった本の候補の絞り込みを繰り返し、最後まで残った数冊を借りる。
場所の制約がなくて、住む場所としての候補が、世界中に無限にあるとしたら、私は、きっと、「自分にしっくりくる場所を探す旅」を、永遠に続けるのではないかと思う。
ある特定の場所に住み慣れることによって見つけることができるたった一つの「都」ではなくて、いろんな場所に住んでみることによってのみ見つけることができるたくさんの「都」に、私は住んでみたいと思う。
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