醜いのは日本なのか、私なのか
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書籍「醜い日本の私」(中島義道)
哲学者である著者は、この国の景観の醜さや街の騒音などの例をあげて、それを何の躊躇いもなく受け入れているフツーの人々を嘆きます。表紙の帯には、「『美しい国』が好きな人には、読んでいただかなくても結構です」とあって、なかなか挑発的ですが基本的に私はアグリーです。
たとえばそれは、狭い路地に張り巡らされた電線であったり、商店街の街路灯等に括りつけられたプラスティック製の桜や紅葉であったり──。あるいは、駅前の夥しい数の華美すぎる広告看板、繁華街や駅・電車内で繰り返される過剰な放送等々です。
そして彼は、この国の多くの人々は本来、「美」に敏感である──銀閣寺の庭園などの静寂な美しさを好む──にもかかわらず、「醜」も排除しない性質を持つと指摘します。つまり、美に敏感なわりに、醜に鈍感というわけです。まったくもって同感です。その結果、街は常に醜悪で騒々しい。
もっとも私は、TPOに応じてある程度は許容せざるを得ないと思っています。たとえば渋谷や秋葉原の駅前が騒々しいのはやむを得ないのだろうし、公共交通の案内放送が繰り返されるのも致し方ないでしょう。何を許容し、何を排除すべきかは、個々人の感覚によってかなり異なると思います。
日本の街は何でもありのカオスだからクールなのだという人もいます。しかしそれもTPO次第ではないでしょうか。その意味で、私が是非とも街(特に閑静な住宅街)から排除して欲しいと思うものが二つあります。一つは、これまでも言ってきたように幟旗です。なんであんなシャビーで醜悪な物を皆が好きなのか、私にはまったく理解できません(が、しつこくなるので、ここでは繰り返しません)。
もう一つは──これは多くの人からお叱りを受けるのでしょうが──、標語の看板です。これが当館のある浜松にはやたらと多い。交通安全の標語は命にかかわることだから許容せねばならないとしても、浜松の街に氾濫している標語看板のほとんどは道徳的な内容なのです。
果たしてあれで自分の不道徳な心を戒める人間など、どれほどいるのでしょうか? その効果のほどを検証しないまま、夥しい量の標語看板を掲げ、街の景観を壊しているのはどこか独善的で、かつ暴力的ですらあります。
「まあ、そんなに目くじら立てる必要はないじゃないか。別に悪い事が書いてあるわけじゃないんだからさ」
とよく言われます。しかしあれこそが、著者の言う「日本人の押し付けがましい優しさ」ではないかと思うのです(もちろん、あくまでも個人的な意見です)。
本書の冒頭で著者は、タイトルの「醜い」は「日本」にかかるのか、「私」にかかるのかの問いに対して、両方にかかると答えています。果たして醜いのは日本なのか、著者や私なのでしょうか。多くの人は「つまらぬことに難癖付けるお前らだ」と言うのでしょうね。
因みに本書は、街の美醜をきっかけにして、もっと深遠なテーマまで掘り下げています。