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それでも抗う

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小説「遅い男」(J・M・クッツェー)

ネット情報によると、介護の現場ではセクハラが頻発しているという。セクハラとは「性的な嫌がらせや相手の望まない性的な言動すべての行為で、相手が『不快』と思った段階で該当する」のだから、すべては相手次第、つまり受け手の側に決定権がある。

となれば、高齢者介護におけるそれは、ジェネレーション・ギャップによるものも多いのではないか。TVドラマ「不適切にもほどがある!」でもやっていたように、高齢者が若かった頃のごく普通のコミュニケーションが現代ではセクハラ行為に該当したり、コンプラ違反となったりする。

昔の常識は今の非常識なのだが、高齢者の頭の中は上書きされずにいる。本人に悪気はないが、だからと言って許されるものでもない。

しかしなかには、この小説の主人公ポールのように切実な場合(という表現はそれこそ不適切かもしれないが)もあるに違いない。彼は物語の冒頭でいきなり交通事故によって片脚を失う。独身で歳も60代なので以後、介護士マリアナを雇い、生活を支えてもらうが、適確かつ献身的な介護を受けているうちに、中年既婚者の彼女に恋をしてしまう。

物語の中で、謎の老女エリザベス・コステロが言う。

「ある年齢を過ぎれば私たちは皆多かれ少なかれ、片脚をなくすようなものだと思う。失われたあなたの片脚は、なにかの兆候だか象徴だか症候だか(中略)まあそういうものにすぎないのよ、年老いていくということ、年老いて面白みをなくしていくということの、ね」

言い得て妙である。そうした中では、介護士の自分に向けた献身的な介護が何か特別なもの(愛情?)のように思えてしまうのだろう。その勘違いによるセクハラ行為はむしろ厄介かもしれない。

実は今回この小説を読んだのは二回目である。以前読んだときは気にも留めなかったコステロ女史のこの言葉が、今回妙に刺さったのは私もそろそろその年齢に達しつつあるということだろうか。

世間一般は、ポールの年齢の男には枯れた分別を求める。金銭欲も名誉欲も出世欲も、もちろん情欲も枯れ果てた男の分別を。ところがポールは、ちっとも枯れていないのである。たぶん若い頃となんら変わっていない。なのに、世間はそれを許してくれず、そこに戸惑ってしまう。

終盤、コステロは「早いとこ諦めてさっさと老境に入れ」と促すが、ポールはそれに抗う。

──半時間前にはマリアナとともにいた。なのにいま、マリアナははるか後ろに遠のき、彼にはエリザベス・コステロしか残されていない──

エリザベス・コステロは作者の分身という指摘もあるが、私は主人公の分身──すなわち心の声だと思う。我々だって、分別がないわけではないのだ。分別ある心の声をいつだって聞いている。だから苦しいのだ。

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