『あしたの孵化』を読みました。
『あしたの孵化』
辻 聡之
[短歌研究社]
装丁がまた美しいです。スマホの写真ではわかりづらいですが。
ハードカバーなのに、そうっと開きたくなる美しい紙が使われています。
でも歌そのものは、繊細かと言ったらそうとばかりも言い切れないような。
情景も表現も繊細なのだけれど、主体はどこか達観しているような不思議な感覚です。
たくさん好きな歌があって、どれをご紹介しようかとても迷います。
通り雨過ぎたるのちの「にじ!」という子どもの声に虹現れぬ
「にじ!」という子どもの声がしなかったら、きっと虹には気づかなかった(空も見なかった)人たち。すべてが好きです。
神様を信じなくてもかまわない暮らしの中で大吉を引く
神様を信じなくてもかまわないのに、なんとなく引いたおみくじが大吉だったとしたら。神様を信じたいときにその大吉を引きたかった、と私なら思いそうです。そんな気持ちなのでしょうか。それとも絶好調のしるしでしょうか。
「暮らし」が神様とは遠いところにある言葉のようで、組み合わせにハッとしました。
新幹線に置いていくよと叱られて泣いている子を過ぎる富士山
今は移動もままならなくて、新幹線で泣く子もいないんだろうな、と思ったらさらに切なくなってしまいました。新幹線で富士山を見逃してしまった子以上に切ないです。「泣いている子を過ぎる」というのがいいです。人が中心。
一輌に百人ほどの善人を載せて音なく地下をゆくもの
つい最近はこれが当たり前でない日々だった、と思ってしまい、心に残りました。
善人ですよね、明らかに。「地下をゆくもの」にぎゅうぎゅう詰めになって身を預ける人たちは。
当分はできない旅と思うとき胸ポケットに満ち干する海
今の情勢と絡めてしまいました。そうじゃないときに詠まれた歌なのですが、でもとても今の私に響きます。「胸ポケット」は、切符をしまう場所だと思いました。旅をするときに、切符があるはずの場所。海に繋がっている想像ができます。満ち干するのは心の動きでもあり、胸ポケットは心から近そうで近すぎなくて、絶妙な距離だと思いました。
夜寒町の東に楽園町がありすこし光っている地図記号
みんなから「楽園町」と呼ばれている、楽園町に住む親戚がいます。私にはとても親しみのある地名だったので、疑問にも思ったことがなかったのですが、よく考えたらすごい地名だな、そういえば、と思って選びました。余談ですが、楽園町に住む私の親戚は、非常に温和です。
感触が濡れたナスだと聞きしよりイルカはずっと美しい茄子
私は逆にこの歌を読んだら、ナスを見たらイルカ…と思ってしまいそう、と思いました。こんなに美しい歌を生活感いっぱいな受け取り方をしてしまい、申し訳ないです。切るときには忘れたいと思います。
写真展に老夫婦ありて沈黙を長く一枚の前に添えたり
写真展に足を運ぶ老夫婦も素敵なのですが、そんな風に沈黙を長く添えてもらえる写真を撮りたい、と強く思いました。
店長の叱責されている声がコーヒーに溶けていて四百円
店長のその苦労もコーヒーの値段に入っているということでしょうか。深紅のソファーの喫茶店が浮かんでしまいました。客層がバラバラなんですよね。
菜の花のとおく聴きいる春雷のどこかに姪の呼ぶ声のする
これだけで読んでも切ないのですが、これはぜひ歌集の中で読んでいただきたいです。意識して「菜の花」にされていますよね、きっと。きゅっと心をつかまれます。
名古屋駅西銀座通商店街
冬枯れに中華料理屋華やぎて人間はみな踊るシュウマイ
いつでもそこに行けば誰かがいそうで、いつも華やいでいる場所。踊るシュウマイになりたいし食べたいです。(食べたすぎて意味不明。)
荻原裕幸さん、松村由利子さん、寺井達哉さんによる栞もそれぞれ共感と感嘆の嵐でした。引用しきれないけれど。
「私もその歌、好きですー!」
と思いながら読んでいました。
しばらく浸ります。