「脱輪noteのおすすめ15選」への感想(未完)
竜頭
僕の友人に脱輪先生という天才批評家がいます。(ちなみに僕と彼は先日、ドイツ美術史について議論を交わしました。その顛末については以下をご覧ください。)
さて。そんな天才批評家にして僕の愛すべき論敵、脱輪先生が昨日「【はじめての方へ】脱輪noteのおすすめ15選🧊🍧」なるものを公開されました。
この記事が公開されているのを見つけた瞬間、僕は狂喜乱舞しました。僕もかねてから脱輪先生の文章をより深く読みたいと思っていたのですが、なにぶんアーカイブが膨大なためどこから入ればいいのか悩んでいたのです。
そんな折、まさか脱輪先生自ら「脱輪初心者」のための選集を編纂してくださるとは。これは是が非でも感想を書かなければ。それも好敵手にふさわしく、率直にして簡明な感想を書かなければ……
そのような使命感のもと、僕は本稿を書き始めました。僕の態度に不安を抱く読者の皆様には、僕への再反論の記事において脱輪先生が述べた言葉をそのまま送りたいと思います。
① 絶対にフラれない男、西くん
黒井の評価:★★★★★
選集の冒頭を飾るにふさわしい記事。シンプルに面白く、そのうえ哲学的でもあり、脱輪先生の散文家としての才が存分に発揮されています。「好きじゃない」には「別の角度から考えてみよう」と返答しつつ、「好き」には同じ言葉を返さないあたり、西くんは詐術的だなあと感じました。
さて、ここからは「感想」と言うより「連想」や「妄想」と呼ぶべき次元の話なのですが……脱輪先生が友人として描いた「西くん」の正体は、実は西田幾多郎だったのではないでしょうか。西くんが〝仏のような笑み〟と〝なんだかよくわからない論理〟によってメガネっ子の彼女を幻惑したように、西田幾多郎は仏教的なレトリックと「絶対矛盾的自己同一」なる〝なんだかよくわからない論理〟によって近代日本のインテリ(メガネっ子!)を幻惑しました。(どのような論理か知りたい方はこちらをご覧ください。)
近代日本のインテリは西くんの彼女と同様、東洋思想という〝家を飛び出し、〟西洋思想に傾倒して〝散々楽しんだ挙句、疲れ果てて〟古巣である東洋思想に〝戻ってくるということを繰り返して〟いました。そして西田幾多郎の哲学は、そうした反動が巻き起こるたびに回帰すべき東洋思想として持て囃されました。西田幾多郎も西くん同様、近代日本の知識階級から〝絶対に振られない男〟だったのです。舞台が大学であること、脱輪先生が京都市民であること、タイトルに〝絶対〟という語が含まれていること、これらはみな西くん=西田幾多郎説を傍証しているのではないでしょうか。ちなみに花田清輝という批評家も、自身の恋物語と重ね合わせて西田幾多郎を批判したことがあります(『自明の理』より「旗」を参照)。
西くんと西田幾多郎について色々とこじつけてみましたが、この仮説はあくまでもジョークです。こうしたこじつけを述べたくなるほど面白い文章だった、とだけ申し添えさせてください。
② 愛をひっかけるための釘
黒井の評価:★☆☆☆☆
①があまりにも面白かっただけに、②のつまらなさにはいささか脱力してしまいました。①において脱輪先生は非凡な発想を分かりやすく表現しています。しかし、②において脱輪先生は凡庸な発想を分かりにくく表現しています。「おすすめ15選」にて脱輪先生はこの記事を〝シンプル、初体験の記録🙊〟と説明していますが、脱輪先生には自身の体験をシンプルに記録する気があるのでしょうか、ないのでしょうか? そこの意識レベルの不明瞭さが文体レベルの不明瞭さを生んでいるように感じました。この文章に「ひっかかり」を感じる読者もいるにはいるのでしょうが、少なくとも僕の心にはこの文章は1行も「ひっかかり」ませんでした。
③ 僕たちはなんだかすべて忘れてしまうね = ここに消えない会話がある
黒井の評価:★★★☆☆
採点のとおり、①と②のちょうど中間のようなテクスト。〝なーんてアサヒスーパードライな話をしてしまった後に恐縮だが〟以前の文章については大変快適に読み進められましたが、以後の文章は徐々に読みにくくなっていきました。この読みにくさは脱輪先生のせいではありません。むしろ〝恐縮だが〟以後の読みにくさは、脱輪先生の取り扱っている内容がそもそも難解であることに起因しているのです。(一方〝恐縮だが〟以前の文章はフロイト精神分析の教科書的な解説でしかありません。)
しかし、それでも僕は、「脱輪先生はこの内容をもっと分かりやすく表現できたのではないか?」という期待を彼にぶつけざるを得ません。
僕は脱輪先生がこの文章で取り扱った問題を、
本質レベルでは交わり得ないし交わるべきでもない二人が実存レベルで交わった時、我々は本質のレベルに立つべきか実存のレベルに立つべきか→実存のレベルに立つべきだ!
という風に表現したくてたまらないんです。
ただしこの言い換えには二種類の問題があります。
脱輪先生の文章よりも難しく見える。この難しさは「専門用語が多い」ことに由来する。ただし僕のような書き方は脱輪先生の文章よりも「飛躍が少ない」。一方脱輪先生の文章は「専門用語が少ない」という点において易しいが「飛躍が多い」という点において難しい。よって僕は脱輪先生の文章を僕の文章よりも易しいとは考えない。むしろ僕は、飛躍が多い脱輪先生の文章よりも専門用語が多い僕の文章の方がよほど読みやすいだろう、と自認している。
脱輪先生の文章のエッセンスを取りこぼしている。この問題は前項の問題よりもずっと深刻だ。〝世界が汚れた。シミがついた。(中略)そのシミを、一瞬一瞬素敵なものにしていこう。〟ここで脱輪先生が語っていることは、本質/実存などといった生硬な概念に収まりきるものではない。明らかに僕は何かを取りこぼしている。取りこぼしているのだが、その何かを掴み取ることが今の僕には出来ない。
こうした問題に直面し、僕は「脱輪先生ならこの問題を乗り越えられるのでは?」という期待を抱くに至りました。脱輪先生本人なら、先生の文章のエッセンスを取りこぼすことなく、「専門用語が少ない」かつ「飛躍が少ない」つまり「めちゃくちゃ読みやすい」文章へと練り上げられるのではないか? そうした期待を込めて、今回の評価は星3とさせていただきます。
④ 言語化を言語化した途端失われてしまう沈黙の手触り
黒井の評価:★★★☆☆
僕にとって③は「分かりにくい内容を分かりにくく表現したテクスト」でした。一方、④は「分かりやすい内容を分かりやすく表現したテクスト」です。どちらも内容と表現の水準に差がありません。よって今回も前回と同じく星3とさせていただきます。(どうやら僕は本当に見晴らしの良さを重視する人間のようです。詳しくはこちらをご覧ください。)
内容については非常に共感しました。
脱輪先生がこの文章で展開している論理は、哲学に触れたことのある人間にとってはひどく常識的なものです。特に脱輪先生のようなラカン主義者にとっては、息を吐くように「言語化」可能な内容でしょう。皮肉なことに、おそらく脱輪先生は〝我慢と沈黙によるドモホルンリンクルみたいに地道な創造の過程〟を経ずにこの文章を記述したのです。
しかし、それにもかかわらず僕はこの文章に激しく共感しました。なぜか。私的な話で恐縮ですが、今まさに僕は自分の〝イメージ化〟能力の低さについて悩んでいるのです。言語とイメージを対比させた時、僕は明らかに言語に偏った性格をしています。抑圧されたイメージが地震のごとく押し寄せてくることもごくまれにありますが(どのように押し寄せてくるか知りたい方はこちらをご覧ください)、基本的には「言語によってイメージを抹消したい」という欲望に突き動かされています。おそらくそうした欲望の徴候はここまでの感想文にも表れているでしょう。
ここからは、こうした言葉を脳内に〝ひっかけ〟つつ、〝我慢と沈黙〟を以て脱輪先生への感想を書いていきたいと思います。(どうせすぐ治る癖ではありませんが……)
⑤ トランスフォームる
黒井の評価:★★★★☆
本文について感想を述べる前に、一点。今回の「おすすめ15選」における脱輪先生のキュレーションは本当に見事です。④と⑤の順番が逆転していたら、僕は「トランスフォームる」をこれほど面白くは感じなかったでしょう。④において彼が「言語化」に「イメージ化」を対置していたからこそ、僕は⑤における彼のイマジネーションについていくことが出来たのです。
⑤はシンプルに読んでいて楽しいテクストです。こういった文章に分析は必要ありません。むしろ「トランスフォームる」は、1行毎に文章の色彩(描写された風景の色彩とは必ずしも一致しない)が移り変わっていくさまを無邪気に眺める、という読み方をされるべき小説です。おそらく脱輪先生もそのような態度での鑑賞を望んでいるでしょう。
ただし、「トランスフォームる」にはそのような無邪気な態度を阻むようなノイズが数多く散らばっています。
無意識が裏返った卵形の美術館
割って食べてみたい願望が不意に成就した罪悪感
大小無数の穴がからだを貫いていて、ゆっくりと収縮しながらピンクの襞を呼吸している
山を掘り崩し、切り開いていく文明の足取り
金子兜太
といった、あまりにも分析しやすい語彙の数々。
「分析されるもの」としてのイメージ(オブジェクト次元)を絵画、「分析するもの」としての言語(メタ次元)をキャプションと見なすなら、「トランスフォームる」において脱輪先生はキャプション(メタ次元)を絵画(オブジェクト次元)の内部に挿入してしまっているのです。
その結果、「トランスフォームる」の色彩にはところどころ濁りが生じました。ひょっとすると〝わたしはしらず黄身と白身のぬかるみの中に侵入していたらしい〟という表現自体、そうしたメタ次元とオブジェクト次元の交錯の暗喩として「分析」し得るものかもしれません。
④にて脱輪先生は〝もともと言葉でできている世界をイメージの領域に差し戻す=「イメージ化」する方がよっぽど大変なんじゃないか〟と述べていましたが、この「トランスフォームる」というテクストは、
まず「現実=意識=文明/夢=無意識=自然」という二元論を設定し、次にこの二項を合一させる
という〝もともと言葉でできている〟意図のもと、その意図を〝イメージの領域に差し戻す=「イメージ化」する〟ことによって成立したのではないでしょうか。もしそうだとすると、我々はこのテクストを無邪気に眺めていてはいけません。「トランスフォームる」はイメージ化=暗号化されています。そして我々は、それを言語=平文へと言語化=復号しなければならないのです。
これは脱輪先生に限った話ではなく、むしろ僕にこそ強く当てはまる問題なのですが、現代日本には「詩」と「暗号文」を取り違えている輩があまりにも多すぎます。彼らは分かりやすい文章(平文)を散文的、分かりにくい文章(暗号文)を詩的と見なし、詩の鑑賞とはすなわち暗号文を復号することだと考えて憚らないのです。こうした思想を脱輪先生は侮蔑するでしょう。しかし、「トランスフォームる」というテクストにはそうした俗流の詩学に基づいても「復号」できてしまう脆弱性があります。この脆弱性は、脱輪先生が「トランスフォームる」の中に〝無意識〟や〝文明〟といった「暗号鍵」となる語彙をちりばめてしまったことに由来します。
「トランスフォームる」において脱輪先生はたしかに夢の世界を描きました。しかしその夢は明晰夢ではなかったでしょうか。本文の最初と最後の段落に(ご丁寧にも、まるで額縁のように)〝夢〟という単語が使用されていることを見ても、この小説の主人公はどこかで今見ているものが夢幻的であることを自覚しているように感じられます。近年の研究によると、明晰夢という現象は人間がごくごく浅い眠りに陥っている時に起きるのだそうです。僕は脱輪先生にもっと深い眠りを、明晰ならざる夢を描いてほしかった。脱輪先生ならそれが出来るのではないか。そうした期待を込め、今回は星4とさせていただきました。
⑥ もっと早く知りたかった!〜世界一わかりやすい映画理論入門〜
黒井の評価:★★★★★
目から鱗が落ちました。
文学について物を考える際、僕はいつもロマン・ヤコブソンの『一般言語学』に収録された「言語の二つの面と失語症の二つのタイプ」という論文を参照します。ヤコブソンは隠喩をタテ軸、換喩をヨコ軸とすることにより、文芸批評の基礎理論となるべきデカルト座標系を確立したのです。「もっと早く知りたかった!~世界一わかりやすい映画理論入門~」において、脱輪先生はヤコブソンが文学に対して行なったのと同等の仕事を映画に対して行いました。僕が知らないだけで彼の業績には先駆者がいるのかもしれませんが、少なくとも僕は彼の他にこのような仕事を成した人間を知りません。
褒めてばかりでは癪なので次に進みます。
⑦ わたしたちはみんな都市のチェス盤に置かれたポーン(歩兵)、冷たい指先に首根っこをつかまれ滑ってゆく
黒井の評価:★★★★☆
このテクストをまっさらな姿勢で読むことが僕には出来ませんでした。「脱輪先生は京都市民だ」という背景知識を持っていたせいで、僕は〝わたしたちはみんな都市のチェス盤に置かれたポーン(歩兵)〟という脱輪先生の自認をあまりにもローカルだと感じてしまったのです。
皆様ご存じのように、京都という都市の街並はまさしく〝チェス盤〟のように整理されています。そしてそのような都市計画は、天皇というキング兼プレイヤーを至上とする古代天皇制の思想に基づいています。脱輪先生が言うとおり、京都という都市には〝蜘蛛の巣のように、君のからだが張り巡らされている〟のです。
都市というチェスボード
都市というデータディスク
僕は都市の記憶を再生する生きたソフトウェアだ
都市は記憶のプロジェクションマッピングだ
こうしたレトリックにおける「都市」という単語を「京都」に書き換えたとしても、彼の文章は何ら違和感なく成立するでしょう(「京都というチェスボード」、「京都は記憶のプロジェクションマッピングだ」……)。一方これらを別の都市に置き換えることは出来ません。「東京というチェスボード」、「札幌は記憶のプロジェクションマッピングだ」、どちらもどこか違和感があります。
関東の人間として率直な実感を述べると、東京は全く「チェスボード」的ではありません。むしろ僕は東京という都市を膨大なチューブの束として認識しています。首都高というチューブ、地下鉄というチューブ、環状線というチューブ、そうした太いチューブの隙間をより微細なチューブが縦横に満たしている。チューブとチューブの間には弁や分岐がこれまた数限りなく存在し、人々は赤血球のように流れの一部となってそれらの分岐を通過していきます。ポーンの移動は随意的ですが赤血球の移動は不随意的です。東京という都市には、超越的な視座から駒を操るプレイヤーなるものが存在しないのです。
この文章における脱輪先生の都市論が著しく京都的であるように、この文章における脱輪先生の服飾論もまた著しく平安的です。
大地にせよ身体にせよ、平安時代の文人たちはそうした自然の産物を文化的コードに対応させようと努力していました。このことは平安京が自然地理と青龍・白虎・朱雀・玄武をそれぞれ対応づける(四神相応)ことによって成立したことからも分かります。現在はすべて過去の反復と見なされ、過去の反復としてのみ美と見なされる。〝都市がわたしたちの記憶を貯えているように、服はあの日あの時のからだを外部保存している〟という彼の一文は、「有職故実」なるものの本質を現代的に言い直したものとして読むことが出来ます。
こうした羅列の冒頭に「過ぎにし方恋しきもの。」といった章題でも付ければ、彼の文章はそのまま現代版『枕草子』になってしまうでしょう。〝実験〟を装っていますが、実のところ彼の〝ポエム・クリティーク〟はあまりにも古代的な技法なのです。否、あるいは清少納言が〝ポエム・クリティーク〟を書けるほどの現代性を有していた、と言うべきなのでしょうか。ともあれ、良くも悪くもローカリティを感じさせる作品でした。
蛇尾
当初僕は「脱輪noteのおすすめ15選」に選ばれた全ての文章に対してレビューを書きたいと考えていました。実際、①から⑦まではうまくいっていたのです。しかし⑧以降に突入した途端、僕の筆はずっしりと重くなってしまいました。
脱輪先生は①~⑮の記事をそれぞれ①~⑤(初級者向け)、⑥~⑩(中級者向け)、⑪~⑮(上級者向け)に三分しました。しかし内容に重点を置くならば、①~⑮は明らかに①~⑦と⑧~⑮に二分されます。①~⑦が随筆や評論や小説から構成されているのに対し、⑧~⑮はまさに脱輪先生の本領であるところの「批評」から構成されているのです。冒涜的な比喩を用いるならば、①~⑦は迹門、⑧~⑮は本門です。そして今の僕には、本門について語るだけの力がありません。
本門は批評である以上、それについて語るには批評だけでなく批評の対象についても知識を持たなければなりません。しかし今の僕には対象の映画についても音楽についても十分な知識がありません。脱輪先生は「それでもいい」と言うでしょう。彼は元の映画を観なくても楽しめる映画批評、元の映画よりも楽しめる映画批評を目指しているのですから。たしかに彼のレトリックを楽しむためだけならそれでもいいのかもしれません。しかし、彼の文章について何かを語るためには、やはり僕は元となる映画や音楽を知らなければいけないのです。彼が批評した映画や音楽を改めて批評した上で、彼の批評と僕の批評の偏差から彼の特徴を暴き出す。そうしたアプローチを取らなければ、僕は彼の批評について意味のあることを何も語れないでしょう。
それゆえまことに恐縮ですが、この記事は未完とさせていただきます。脱輪先生の批評の対象について脱輪先生と同等の知識を持つまで、⑧~⑮についての感想は凍結させてください。
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