哲学メモ:存在誌(ontographie)について
僕の友人にリゼ君という人物がいる。(Xアカウントはこちら)
彼は哲学徒であり、「実在論的唯我論」という立場から形而上学(特に存在論)を再興しようと志している。(詳しくはこちら)
僕は存在論を知らない。よって僕には彼の計画が成功するか失敗するかを前もって予想することができない。ただ存在論についてちょっとしたアイデアが浮かんだので、彼への応援を兼ねてここにメモする。
タイトルにある存在誌(ontographie)という言葉は僕の造語である。
冒頭に引用した箇所でレヴィ=ストロースが述べているとおり、社会科学において「民族誌(ethnographie)」と「民族学(ethnologie)」は関連するが異なる学問として区別されている。
その区別に着想を受け、僕は「存在論(ontologie)」の対概念として「存在誌(ontographie)」という造語をでっち上げたのである。
体系的な学問としての民族学(ethnologie)は、非体系的な学問としての民族誌(ethnographie)なしには成立しなかった。
大航海時代以後、西洋には世界各地から異文化に関する報告書が大量に流入した。そうした報告書=民族誌があって初めて、民族学という学問は可能となったのである。
現代日本において民族学という言葉はあまり用いられていない。むしろ現代日本においては「文化人類学」という言葉が民族学に相当するものとして多く用いられている。民族学=文化人類学とは、「人類とは何か?」という問いを文化的見地から深める学問なのである。
人類とは何か?
この問いを深めるにあたって、西洋文明はまず「さまざまな人類」を発見しなければならなかった。
〝われわれのとはもっとも大きく異なる人間集団(レヴィ=ストロース)〟との接触によって初めて、西洋文明は「人類とは何か?」という問いを自覚するに至ったのである。
一方、存在論とは「存在とは何か?」という問いを深める学問である。
西洋文明は「さまざまな人類」の発見(=民族誌)によって「人類とは何か?」という問いの自覚(=民族学)に至った。
ここで一個の類推が生じる。
「存在とは何か?」という問いの自覚(=存在論)もまた、「さまざまな存在」の発見(=存在誌)がなければ芽生えなかったのではないだろうか?
ハイデガーによって存在論の再興が宣言される前夜、ヨーロッパは「諸学の危機(フッサール)」に直面していた。
『存在と時間』序論第一章第三節においてハイデガーは、数学、物理学、生物学、歴史学的な精神科学、神学などの諸学において起こっている危機的な変化を列挙した上で、それらの諸学が「基礎づけ」を獲得するためには存在論がそれらに先行しなければならない、と述べている。僕の造語を用いるならば、フッサールやハイデガーが直面していた「諸学の危機」とはすなわち存在誌の発展に対する存在論の停滞であった、ということが出来るだろう。諸学は「さまざまな存在」を発見していたものの、それらを統一的・体系的に把握するには至っていなかったのである。
たしかにハイデガーの言うとおり、論理的レベルにおいて、存在論は(存在誌を含む)諸学に先行しなければならないだろう。ある学問を学問として〝基礎づけ〟るためには、その学問の〝主題的な対象〟であるところの〝事象領域〟を〝その存在の根本体制にもとづいて解釈する〟必要があるのだ。(〝〟内はハイデガー.存在と時間(一).岩波文庫,2013年,p.106-107.より引用。)
しかし、歴史的レベルにおいて、存在論は存在誌に先行されなければならない。
諸学の危機についての記述の少し前に、ハイデガーは次のような問いかけを発している。
こうした問いかけの後に諸学の危機についての記述が来る、という本文の構成を踏まえると、ハイデガーにとって諸学の危機=「さまざまな存在」の発見は決して単なる時事的な(actuel)出来事ではなかった、ということが分かる。ハイデガーにとって存在誌(ontographie)は自身の存在論(ontologie)の歴史的成立条件であった。存在誌における発展があったからこそ、ハイデガーの存在論は単なる〝宙に浮いた思弁〟を超えた現実性(actualité)を獲得したのである。
現在、リゼ君の理論的作業は停滞している。停滞の要因には僕が察知できているものもあれば察知できていないものもあり、理論の内部に由来するものもあれば理論の外部に由来するものもある。おそらくこの停滞は一朝一夕に解決するものではないのだろう。
僕からは一点だけ、リゼ君の作業に助言を差し挟みたい。
ここ数年リゼ君は存在論的な仕事に励んでいる。しかし、彼が存在誌的な仕事をしているところはあまり見ない。ハイデガーにおいては歴史的な順序(存在誌→存在論)と論理的な順序(存在論→存在誌)が交差していたが、リゼ君においてはどちらも存在論→存在誌という向きで進行しているように見受けられるのだ。
これを読んだリゼ君は次のように反論するかもしれない。「自分は元々物理学を志していた。さまざまな存在を〝その特殊性においてとらえて観察し分析すること〟にはすでに慣れている」。しかしこの反論は正当ではない。存在誌と違って物理学は非体系的ではないし、そこで扱われている「さまざまな存在」もまた〝われわれのとはもっとも大きく異なる〟とは言い難いからだ。むしろ僕はリゼ君がしばしば口頭で語っているフィクションについての認識こそ、フィクションの「存在」に関する報告書=存在誌として優れているように感じる。存在論に関する文章を書くことに行き詰まっているなら、まずは存在誌に関する文章を書いてみたらどうだろう。何かのヒントになれたら光栄である。
リゼ君への助言も終えたので、最後に自分の無能を告白しよう。やはり僕は存在誌(ontographie)という造語をでっち上げる必要などなかったのだ。それこそフッサールやハイデガーの頃から、哲学の世界には「存在誌」に相当する言葉として「現象学」という立派な術語があったのだから。