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ファットボーイ・スリム版「放射能」について


Radioactivity
Is in the air for you and me

クラフトワーク「放射能」より

プロローグ

 1975年にアルバム『放射能(Radio-Activity)』を発表して以来、クラフトワーク(Kraftwerk、テクノポップの創始者として知られる西ドイツのロックバンド)は幾度となくそのアルバムの表題曲である「放射能(Radioactivity)」を演奏してきた。その中でも、チェルノブイリ原発事故以後に作られたアレンジ(1991年版)と福島第一原発事故以後に作られたアレンジ(2012年版)は、歌詞が明瞭な反核的メッセージを持つようになったという点で多くの人から注目された。特に2012年版は歌詞が日本語であることや今年のフジロックで演奏されたということもあり、政治的にも文化的にも議論の的となることが多い。
 原発問題に関心があったこともあり、僕は中学生の頃からこうしたさまざまなバージョンの「放射能」を好んで聴いてきた。当時の僕にとって、原子力発電への反対を歌うクラフトワークの姿は「正しい」だけでなく「美しい」ものでもあったのだ。そして僕は今なお、原子力発電への反対を「正しい」ことだと考えている。
 しかし昔の僕と今の僕では変化したことが一つある。僕はクラフトワークによる「放射能」だけでなく、ファットボーイ・スリムによるそのカバーをも好むようになったのだ。むしろ最近ではクラフトワーク版よりもファットボーイ・スリム版を聴くことの方が多い。(ちなみにファットボーイ・スリムはビッグ・ビートというジャンルの立役者として知られるイギリスのアーティストである。)
 ファットボーイ・スリム版「放射能」には奇妙な魅力がある。
 ファットボーイ・スリム版のサウンドはオリジナルから大きくかけ離れている。クラフトワークの忠実なファンはファットボーイ・スリム版を下品なパロディーと感じるかもしれない。しかし同時にファットボーイ・スリムはある意味において、1975年版の「放射能」をクラフトワーク自身よりも忠実に受け継いでいる。1991年版や2012年版において、クラフトワークは明瞭なメッセージと引き換えに1975年版の「放射能」が持っていた多義性を取りこぼしてしまった。そしてファットボーイ・スリムは、まさにクラフトワークが取りこぼしたものをそのカバーにおいて復活させたのだ。


1975年版「放射能」

 クラフトワークは何を取りこぼしたのか、そしてファットボーイ・スリムはそれをいかに復活させたのか。それらの問いに答える前に、まずは1975年版の「放射能」がどのような曲だったのかを論じていきたい。

 1975年版「放射能(Radioactivity)」は、アルバム『放射能(Radio-Activity)』のA面2曲目に収録されている。
『放射能(Radio-Activity)』はコンセプトアルバムである。このアルバムは、全曲を通して放射能(radioactivity)とラジオ活動(radio-activity)の連想に貫かれているのだ。この両義性はジャケットにも表れている。デジタル・リマスター盤のジャケットは上のとおり放射能のマークだが、1975年当時のジャケットにはナチス・ドイツがプロパガンダに用いた「国民ラジオ」の写真が印刷されていたのである。
 アルバムとしての『放射能』全体において放射能とラジオが重なり合っているように、その表題曲である「放射能」においても放射能とラジオは重なり合っている。冒頭で僕は「放射能」の歌詞から「Radioactivity / Is in the air for you and me」という一節を引用したが、この「the air」というフレーズは「空気」だけでなく「放送」とも翻訳することができるのだ。また1975年版「放射能」には「Tune in to the melody」という、明らかにラジオと結びついた一節もある。1975年版「放射能」において、「radioactivity」という単語はこのような多義性を持っていたのである。
 歌詞が多義的であったように、1975年版「放射能」はサウンドにおいても多様な手ざわりを内包している。
 
初期のクラフトワークはプログレッシヴ・ロックやミュジーク・コンクレート(現代音楽の一ジャンル。都市の騒音や機械音など、それまで非音楽的とされていた音を録音・再構成することで作品に用いる技法)から強い影響を受けていた。そして『放射能』もまた、テクノポップでありながらプログレッシヴ・ロックやミュジーク・コンクレートの要素が強いアルバムとなっている。
 まずはミュジーク・コンクレートの要素について。『放射能』の1曲目である「ガイガー・カウンター」にはその名のとおり放射線測定器の音が収録されており、それがそのままシームレスに2曲目の「放射能」の前奏へ繋がるという構成になっている。また「放射能」にはモールス信号の音も効果的に用いられている。「それまで非音楽的とされていた音」が多用されているという点において、1975年版「放射能」は非常にミュジーク・コンクレート的である。
 次にプログレッシヴ・ロックの要素について。1975年版「放射能」のサイウンドは、オーケストロン(それ以前にあったメロトロンという楽器の改良版)による重層的なコーラスをその最大の特徴としている。メロトロンやオーケストロンの音は、楽器の音や人間の声に似ていながらもどこか非人間的であるため、聴く人に不気味な印象を感じさせる。そしてキング・クリムゾンをはじめとするプログレッシヴ・ロックのアーティストは、そのような不気味さに惹かれてメロトロンを多用してきた。オーケストロンによる重層的なコーラスが用いられているという点において、1975年版「放射能」のサウンドはプログレッシヴ・ロック的である。また、アルバム全体に統一性を持たせようとする志向においても、アルバム『放射能』はプログレッシヴ・ロック的であると言えるだろう。
 このように、1975年版「放射能」は、歌詞においてもサウンドにおいても複数の意味を横断するような性格を持っていた。しかしその後、クラフトワークは「放射能」が持っていたこうした多義性を抹消していく。

1991年版「放射能」

Chernobyl, Harrisburg, Sellafield, Hiroshima
Chernobyl, Harrisburg, Sellafield, Hiroshima

1991年版「放射能」より

 1991年版「放射能」はアルバム『THE MIX』に収録されている。
 前述のとおり、1991年版「放射能」はチェルノブイリ原発事故を受けて制作された。冒頭ではチェルノブイリやハリスバーグ(スリーマイル島原子力発電所がある都市)など、核汚染に関係する地名が列挙されている。また1975年版において「Radioactivity」と言っていた箇所は「Stop Radioactivity」に変更され、さらには「Chain reaction and mutation / Contaminated population(連鎖反応と突然変異/汚染された住民)」という一節が追加された。そのかわり「Tune in to the melody」という一節は削除された。1991年版「放射能」において、「radioactivity」という単語は「ラジオ活動」という意味を失ってしまったのである。
 歌詞の多義性が失われたように、1991年版「放射能」はそのサウンドにおいても多様な手ざわりを失ってしまった。1975年版「放射能」はアナログ・シンセサイザーによって演奏されていた。一方、1991年版「放射能」はデジタル・シンセサイザーによって演奏されている。機材の進歩によって1991年版は1975年版よりもシャープなサウンドを獲得した。しかしその代償として、1991年版の音は画一的・機械的になってしまった。たとえば1975年版ではアナログ・シンセによる8分音符のベースが絶えず鳴っているが、よく注意して聴くとその8分音符の一粒一粒には強さや長さにバラつきがあることが分かる。しかし1991年版の音にそのようなバラつきは存在しない。アナログ・シンセからデジタル・シンセへの移行によって、「放射能」のベースは均質になってしまったのである。なお、均質になったのはベースだけではない。1991年版においては、ヴォーカルもまたヴォコーダーを通ることによって画一的・機械的となっている。
 ジャンルという観点においても、1991年版は1975年版に比べて画一的である。
 1975年版と1991年版の最も大きな違いはドラム・パターンにある。1975年版のドラムが(音色こそシンセ・ドラムだったものの)パターンにおいてプログレッシヴ・ロック的だったのに対し、1991年版のドラムは音色においてもパターン(4つ打ち)においても非常にテクノ的だ。それゆえ、テクノとしての完成度は1975年版よりも1991年版の方が高い。しかしその反面、1991年版は1975年版が持っていたようなプログレッシヴ・ロック的特徴やミュジーク・コンクレート的特徴を失ってしまった。
 かくして、1991年版「放射能」は1975年版が持っていた多義性を取りこぼしてしまった。そしてクラフトワークは、2012年版においても再び「放射能」の多義性を抹消することとなる。

2012年版「放射能」

日本でも 放射能 きょうも いつまでも
フクシマ 放射能 空気 水 すべて
日本でも 放射能 いますぐ やめろ

2012年版「放射能」より

 前述したとおり、2012年版は福島第一原発事故を受けて制作された。このバージョンが「Fukushima Version」と呼ばれているのはそれが理由である。今年のフジロックで演奏されたのもこのバージョンだ。
 2012年当時においても、今年のフジロックにおいても、「Fukushima Version」の歌詞は日本において激しい賛否に晒された。「フクシマ」という地名と放射能を結びつけることは福島という土地への差別に繋がるのではないか、といった批判が、クラフトワークのもとに殺到したのだ。これらの批判はまさに玉石混交だった。一方ではナショナリストが「電子音楽のアーティストが原発を批判するなんて」といった低劣な揶揄を行なっていたが、もう一方では「フクシマ」という地名の象徴化について、下に引用した記事のような至極真っ当な批判が書かれてもいたのである。

 さて。玉石混交の「玉」に相当する批判も「石」に相当する批判も、そのほとんどは2012年版においてクラフトワークが「付け足した歌詞」をその言及の対象としていた。彼らにとって問題の中心は「フクシマ 放射能」や「いますぐ やめろ」といった歌詞だったのである。しかし、むしろ僕はクラフトワークが2012年版から「差し引いた歌詞」について言及したい。僕は、1975年版にも1991年版にも存在していた「Radioactivity / Is in the air for you and me」という一節の削除こそが、2012年版「放射能」の問題の根幹だと考えているのである。
 前に僕は「radioactivity(放射能/ラジオ)」や「the air(空気/放送)」などの単語からこの一節の多義性を説明した。しかし、それ以外の単語においてもこの一節は多義的に解釈し得る
 英語の「for」という助動詞には「~のための」という用法と「~のために」という用法がある。たとえradioactivityの意味を放射能に、the airの意味を空気にそれぞれ限定したとしても、この一文には

  • 君と僕のための空気の中に、放射能は存在する。

  • 君と僕のために、空気の中に放射能は存在する。

という二通りの解釈があり得てしまうのだ。前者の解釈において「君と僕」は被害者だが、後者の解釈において「君と僕」は加害者である。そしてどちらの解釈においても、「君と僕」は放射能について他人事ではいられない。
 1975年版においても1991年版においても、「君と僕」は放射能について被害者でもあり加害者でもあるという複雑な立場に置かれていた。しかし2012年版において、クラフトワークはそのような複雑な立場に身を置こうとしてしない。彼らが「付け足した歌詞」を見ればそのことはよく分かる。「フクシマ 放射能」という歌詞は、「フクシマ」という地名のみに被害者としての立場を背負わせるよう作用している。そして「いますぐ やめろ」という歌詞は、「やめろ」と言われるべき勢力のみに加害者としての立場を背負わせるよう作用している。2012年版「放射能」からは、「君や僕もまた核汚染の被害者であり加害者である」という観点が抜け落ちているのだ。なお2012年版のサウンドについては1975年版と1991年版の折衷でしかないため説明を省く。
 ここまで僕は、1975年版が歌詞においてもサウンドにおいても複数の意味を横断するような性格を持っていたこと、および1991年版や2012年版においてはそうした横断性が失われていることを説明してきた。ここからは、このようにしてクラフトワークが取りこぼしたものを、ファットボーイ・スリムがいかに復活させたのかについて論じていこう。

ファットボーイ・スリム版「放射能」

 1991年版であれ、2012年版であれ、クラフトワークによる「放射能」のセルフカバーは常に「生真面目」であった。彼らは反核的メッセージを伝えるために、「放射能」の歌詞やサウンドを「生真面目」に再構築したのである。しかし前述したように1975年版の「放射能」は必ずしも「生真面目」な音楽ではなかった。その歌詞は「放射能=ラジオ活動」という言葉遊びを基礎としており、またそのサウンドもさまざまな要素から成り立っていたのである。
 ただし、1975年版の「放射能」ですら、ファットボーイ・スリム版の不真面目さには到底及ばない。
 クラフトワークと同様にファットボーイ・スリムもまたシンセサイザーを多用している。しかし彼が選ぶ音はクラフトワークのそれとはあまりにも異なる。たとえば、クラフトワーク版においては厳粛に響いていた「ミラ、ラミラミ、ラド、シラ」という旋律を、ファットボーイ・スリムは鉄琴のような軽妙な音に奏でさせている。また本来重々しいものであった間奏には「ボヨヨ~ン」というバネの跳ねるような音が追加されている。彼は、意図的にポップでチープな音を用いて「放射能」を再構成したのだ。
 伴奏だけでなくヴォーカルにおいてもファットボーイ・スリムはクラフトワークをパロディー化している。
 前述したとおり、クラフトワークは西ドイツのバンドである。それゆえ1975年版の「放射能」には英語のパートとドイツ語のパートが存在する。そうしたクラフトワークの経歴を皮肉っているのだろう。ファットボーイ・スリム版の「放射能」には、英語のパートとフランス語のパートが存在する。しかも英語パートすら、冗談のように誇張されたフレンチ・アクセントによって歌われているのだ。(フランス語パートはフランス語パートで不正確なのだが……)
 読者の中には疑問に思う者もいるだろう。なぜ筆者はこれほどまでに不真面目なカバーを、1975年版「放射能」の忠実な継承者であると見做すのだろうか、と。その問いに答えるためには、再度「放射能=ラジオ活動」という言葉遊びの持つ意味について考えなければならない。
 前述したとおり、1975年当時、アルバム『放射能』のジャケットにはナチス・ドイツがプロパガンダに用いた「国民ラジオ」の写真が印刷されていた。アルバム『放射能』において、放射能による汚染が我々に降り注ぐ様子とラジオによるプロパガンダが我々に降り注ぐ様子はよく似たものと捉えられていたのである。核汚染について僕たちが被害者であるとともに加害者でもあるように、プロパガンダについても僕たちは被害者であるとともに加害者でもある。核汚染であれ、ナチスであれ、その被害者性や加害者性を特定の土地や勢力に背負わせることは僕たちには出来ない。僕たちは皆、原子力やラジオに代表される現代文明の益と害をともに「享受している」のだ。
 ファットボーイ・スリム版「放射能」の音はクラフトワーク版の音よりもポップである。そのポップさコミカルさゆえに、僕たちはファットボーイ・スリム版「放射能」をクラフトワーク版よりも楽しく「享受する」ことができる。しかし、その弛緩した気分のただ中において、僕たちはふと我に返る。僕たちは常日頃、まさにこのような弛緩した気分のもとに、原子力やプロパガンダを「享受している」のではないだろうか。まさにこのような弛緩した気分において、僕たちは被害者であるとともに加害者でもあるのではないだろうか……と。こうして我に返った時、ファットボーイ・スリム版「放射能」はクラフトワーク版以上の啓蒙性を持つようになる。ファットボーイ・スリム版「放射能」はたしかに不真面目である。しかし、まさにその不真面目さによって、ファットボーイ・スリム版「放射能」は僕たちと現代文明の共犯関係を暴露しているのだ。

エピローグ

 先ほど僕は「電子音楽のアーティストが原発を批判するなんて」というクラフトワークへの批判を紹介し、それを「低劣な揶揄」として切り捨てた。もちろん政治的レベルにおいてこうした批判は低劣である。電子音楽やラジオといった諸々を含む現代文明を肯定した上で、「そうした現代文明の持続において原子力発電は有害無益である」と主張することは可能だからだ。しかし、文化的レベルにおいて、僕はこうした批判を切り捨てるべきなのだろうか。
 政治的レベルにおいて、ほとんどの論者(特に職業政治家)は次のいずれかの立場に身を置いている。

  • 現代文明の持続において原子力発電は有益である。よって原子力発電は廃止されるべきではない。

  • 現代文明の持続において原子力発電は有益ではない。よって原子力発電は廃止されるべきである。

これら二つの立場は一見正反対だが、「現代文明の持続」を目標としている点で共通している。「現代文明の持続において原子力発電は有益である。しかし原子力発電は廃止されるべきである」や「現代文明の持続において原子力発電は有益ではない。しかし原子力発電は廃止されるべきではない」といった立場が政治的な力を持つことはないのだ。そしてもちろん僕も、あくまで政治的レベルにおいての話であれば、現代文明の持続を非常に素晴らしいことだと考えている。よって僕は、原子力発電に関する政治的レベルにおいての議論は、主に上の二つの立場の間で交わされるべきだ、と考えている。
 しかし、文化的レベルにおいて、僕は上に挙げた二つの立場のどちらにも与したくない。これら二つの立場はどちらも自己批判の精神を欠いているからだ。前者は原子力発電を「自己を構成するもの」の内側に置いており、それゆえに原子力発電を肯定する。後者は原子力発電を「自己を構成するもの」の外側に置いており、それゆえに原子力発電を否定する。前者が原子力発電を肯定するのも、後者が原子力発電を否定するのも、自己を肯定したいからでしかないのだ。もっとも、僕はそれでも政治的レベルにおいてこれら二つの立場をともに肯定する。僕は、できるかぎり多くの人間が自己を肯定できるような政治を、善き政治である、と考えている。自己批判を促す政治など善き政治になるはずがない。
 しかし、自己批判を促さない文化もまた善き文化にはなり得ない。
 1991年版と2012年版において、クラフトワークは社会批判を行なったが自己批判は行わなかった。1975年版においてのみ、彼らは自己批判の精神を完全に発揮していたのである。1975年版において、放射能は「君と僕のための空気を汚す」存在でありながら「君と僕のために空気を汚す」存在でもあった。1975年版「放射能」は、僕たち個人個人と放射能=ラジオの間に結ばれた共犯関係を明らかにしていたのだ。そしてファットボーイ・スリムは、よりポップかつコミカルなやり方でそうした自己批判の精神を再び「放射能」に取り戻させた。
 政治的レベルにおいて、核汚染の責任は政府や原子力関連の企業が負うべきである。そうした責任追及の場で「君や僕」と放射能の共犯関係を持ち出すことは問題のはぐらかしにしかならない。
 しかし、果たして僕たちは、文化的レベルにおいても核汚染の責任を一部の権力者にのみ負わせるべきなのだろうか。
 
政治的レベルにおいて、僕は核汚染の責任を政府や企業に負わせることを「正しい」と判断する。しかし文化的レベルにおいて僕はそうした思考を「浅い」と判断する。こと政治においては核汚染の責任を一部の権力者に負わせる方がより「正しい」判断である。しかし、こと文化においては、核汚染の責任を現代文明全体に負わせる方がより「深い」判断なのだ。
 政治的レベルにおいて、僕は躊躇なく「浅い正しさ」を選択する。しかし、文化レベルにおいて、僕は同じくらい躊躇なく「深い誤り」を選択したいと思っている。自己肯定に由来する正しさよりも、自己否定に由来する誤りの方が文化的には優れている、そう僕は考えているのだ。そして1975年版「放射能」やファットボーイ・スリム版「放射能」は、単純な自己肯定には到底生み出すことのできない「深さ」を持っていた。1975年版を制作した時のクラフトワークも、カバーを制作した時のファットボーイ・スリムも、「電子音楽のアーティストが」原子力をテーマにする、ということの難しさを真正面から受け止めていたのである。

 現代文明は、僕たちのための自然を汚染している。僕たちはそのことを自覚しなければならない。
 現代文明は、僕たちのために自然を汚染している。僕たちはそのことを自覚しなければならない。

 ラジオは放送されている、君と僕のために。
 放射能は放出されている、君と僕のために。

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黒井瓶
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