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生活の些細なことを思い出す人生でありたい



記憶の薄い人生を送ってきたと思う。


「と思う」と付くのは、いま、過去を振り返ろうとしても昔の記憶が薄いので、きっといままで生きてきた私も、同じように記憶が薄い状態で生きてきたのだろうという想定だからだ。
どうにもこうにも記憶力がなく、雲の上を歩くような実感のない思い出ばかりになっている。

一方で、長年付き合いがある幼馴染は記憶力が良く、先日たまたま話題になったのだが、私は彼女に貸して、そのまま彼女が持っているか、捨てたのだろうと思い込んでいたおもちゃの顛末をスラスラと話された。その姿は圧巻だった。言われるとそうだっだような?と、時折脳内の突起に引っかかるような感覚がありながらも、大半は新しい話をへーそうなんだー、と相槌をしながら聞いている気分であった。文字通り、(ほとんど)記憶にございません。


どうしてこうも、同じ物事であるのにも関わらず、私はこんなに覚えていないのだろう。不思議である。だからと言って全て覚えていないのかと言われればそんなことはなく、断片的に記憶はある。しかも、楽しかったことよりも、悲しかったこと、恥をかいたことなど、マイナスなことばかり覚えている。穴があったら入りたくなるような、身銭を削ってでも忘れたいようなものが多い。
小学校の日常生活の記憶は当然うっすらなのに、授業中に近畿地方を関西地方と言ったら、担任からそれは違うとボコボコに公開処刑されたことをいまだに、たまに思い出しては落ち込む無意味で生産性のないことをしている。私可哀想すぎる。

ただ、思い出す力が、他の人よりも弱い気はしている。なんというか、思い出そうとしても全てが散らかっているような感じになるのだ。点と点で存在する記憶を集めても繋がらず、持て余すことが多い。

その記憶を掘り起こす補助としての写真は有効で、写真を見ると何かしら思い出すことも多い。その日のランチに食べたものの写真だけで、その日はどうやって過ごしたか蘇ってくる。本当は普段からそのくらい自力で思い出したいのだが。(普段の私はその日の食事を思い出すのにも時間をかける)
しかし、昔すぎると覚えていることは大枠だけで、鮮明な記憶はほとんどない。ここまで来ると鮮明な記憶って何?という気持ちになる。

ここ最近、iPhoneにジャーナルという、日記をつけられる機能が付いた。
まだシンプルすぎる機能ではあるものの、気軽に一言書いて記録をつけられるのは都合が良い。思い出すきっかけになるようなことを書けるかは不安だが、長文でなくても投稿出来るので、一日に五個くらい書いている日もある。なんとなく遡って、適当な日の自分の書き込みを見るのも楽しい。

ちなみに四月某日の私は、気になっていた作家さんの本を読み、とても良かったということと、自分の見る目の高さを記していた。過去の恥を引きずるタイプのくせに、変なところで自意識がある。
内容としては瑣末なことだけど、当時の私が思っていたこと、やっていたことが感じられて面白い。
これくらいの精神で当時の自分が生きていたのだと、未来の自分へのメッセージを残すためにも、中身の少ない日記は価値がある気がしている。


#創作大賞2024
#エッセイ部門

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