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「じゃがいも」のお寺話50 仏師の系図

平安時代の公家の文化に末法の思想も後押しをしてお寺が建立されて仏像が多く作られるようになりました。そんな時代の流れに求められて定朝という仏師が評価され藤原道長に支えられ活躍の場を与えたのだと思います。

定朝から仏師の系図が作れるようになったと言われます。
日本の仏教は時の権力者により抑制され、弾圧され、復興され、利用されながら歴史を刻んで行きました。政治が宗教と縁を切ったのは昭和20年以降のことです。
仏師も政治の一部に取り込まれながら、繁栄し仏像を作るようになって行ったと言えそうです。公家の時代が終わり、鎌倉の時代から南北朝、室町になるにつれて仏師が活躍する仏像製作が少なくなり、仏師の繁栄も陰りを見せることになりますが、定朝から始まる仏師一派は室町くらいの間は活躍したようです。

定朝(?- 1057年)の弟子の弟子であり実の孫の院助(いんじょ)(?-1108)という仏師がいます。院助から始まる平安時代後期から室町時代くらいまでの仏師の一派があり「院派」と呼ばれています。
定朝の弟子に長勢(ちょうせい)(1010-1091)という仏師がいます。長勢から始まる平安時代中期から鎌倉時代の仏師の一派があり、長勢の弟子の円勢から仏師号に「円」をつけていたので「円派」と呼ばれています。
院派は定朝の血族と弟子が引き続ぎ、京都に工房を構えて公家からの仏像製作の仕事を得ていました。円派も京都で公家からの仕事をしていた徐々に奈良や鎌倉でも仕事をするようになっていったようです。

また、定朝の孫に頼助(らいじょ)(1054-1119)という仏師がいます。興福寺を中心として奈良で活躍し、頼助以降の弟子も奈良で活動していたため「奈良仏師」と呼ばれます。その奈良仏師の一派に康慶(?-?)という仏師がいます。南都の焼き討ちの後の仏像の復興を実施した中心的人物とされます。弟子で息子には運慶、弟子には快慶がいます。奈良仏師の中で特に康慶から始まる一派があり「慶派」と呼ばれます。運慶と快慶は共に康慶の弟子で兄弟弟子の関係です。

定朝から始まる仏師の集団により時代の変化と共に新しい仏像が作られていくようになります。公家の全盛期と末法思想とが重なり時代に求められて生まれた定朝であり仏師集団なのかなぁと思います。

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