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中世日本を語ろう! #2 藤原政権の終焉

皆さん、こんにちは!
ゆうさんです!

今日から早速中世日本を語って行こうと思います!

今日話す内容は、藤原政権の終焉です。
それでは、スタートです!

藤原氏がなぜ実権を握ったのか?

 藤原氏が実権を握った理由はこちらです。
1.自分の娘を天皇に嫁がせて、その子を天皇にして実権を握る(外戚関係)
2.天皇が幼いときに摂政、成年になったら関白に就任する(摂関政治)
 藤原忠平の時代に2.になるには1.であることが前提になります。
 順に説明していきます。

1.外戚関係とは

 外戚関係というのは「天皇の祖父であること」です。
図解で説明します。

 黄色が男性、青が女性です。
藤原道長の娘に彰子がいました。
その彰子を一条天皇に嫁がせます。
その間にお子が生まれこれがのちの後一条天皇となります。
その後一条天皇に三女の威子を嫁がせます。
さらに後一条天皇の兄弟である後朱雀天皇にも四女の嬉子を嫁がせて
その子が後冷泉天皇になるといった感じです。

 このように自分の娘を次々と天皇に嫁がせ、その子に天皇になってもらうことで、外祖父となり実権を握ります。
 そして外戚関係になることで摂政、関白などの要職につくことになるのです。

2.摂関政治とは

  摂関政治と聞いて皆さんは何を思い浮かべますか?
そもそも摂関政治って何?と思われる方もいるかも知れません。

 摂関政治というのは先程も話したように摂政と関白による政治です。
摂政は主に天皇が若い頃(成年)に達しないときに置かれる役職です。
関白は天皇が成年になった後に置かれます。

 実を言うと、成年前に摂政、成年してから関白につくというのは
最初からそうだったわけではなく、藤原基経(836~891)のときとされております。
 基経の子の忠平(880~949)になるとそれまで関白になる前提条件が太政大臣であることだったのですが、忠平から先は「外戚関係であること」が前提となります。

藤原政権の終焉

頼通以降の状態

 さて、道長の後はどうなっていったのでしょうか?
 先程の図解をズームアップしてみましょう。

 こちらを見ていただくとわかるかもしれません。
 藤原頼通の娘を寛子を後朱雀天皇に嫁がせます。
 さあ後は子どもを生んで・・・ん?
 そう!子どもができなかったのです!
 そのことにより外戚関係を築けなくなり、衰退していきます。
 
外戚関係を築けなくなったことで、藤原氏とは関係が薄い天皇が即位します。それが後三条天皇です。

ほかにもある!衰退の原因

 外戚関係を築けなくなたことで藤原氏とは関係ない天皇が即位してしまいました。
 そのことにより他の問題も発生します。
 それが税の免除です。
 
外戚関係を築いていた頃は藤原氏は税金を免除されていました。
(ただの忖度です)
しかし、外戚関係が薄くなったことで税金が徴収されるようになったなりました。このことにより、衰退していきます。
 実を言うと藤原教通が兄の藤原頼通の所領を減らせると思い税を取れる許可を出したと言われております。
なぜそんなことを?単純です、兄弟喧嘩してたんです!
その理由は入内争いです。
要はどっちも外祖父関係を築こうとしました。
・・・が、失敗に終わります。

こんなことをしているうちにどんどん衰退していき、藤原氏の政権は
終焉を迎えたのです。

今日のまとめ

今日のまとめです。
・藤原氏は外戚関係を築き、摂関政治をすることで栄華を極めた
・頼通も同じように外戚関係になろうとするが子が生まれず失敗
・弟の教通との喧嘩と今まで免除だった税が徴収されるようになり衰退

ざっくりですがこんな感じでしょうか。

次回のお話

次回は後三条天皇の改革と院政の始まりをしていきます。

プチお知らせ

この中世日本を語ろうですが、グループみたいなの作ろうかなと画策中です
オンラインやどっかで集まってワイワイ話したり、京都が主で歴史の舞台となった場所の散策などを考えています!

まだ「したいな~」ぐらいなので、もしすることになったら再度お知らせします!
なにかいい案ありましたら教えて下さい!

今日はここまで!
ほな、なたね~




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