[鎌倉殿の13人が生まれる前] 平治の乱
みなさん、こんにちは。ゆうさんです。
前回は保元の乱についての投稿をしました。
今回は保元の乱が元で起こった平治の乱についてお話ししていきます。
それでは、スタートです。
1.保元の乱の結果
前回の保元の乱でも話しましたが、保元の乱は崇徳上皇と後白河天皇の天皇家の争いから摂関家、平氏、源氏も別れて戦う戦となったのです。
結果は後白河天皇側の勝利で終わります。
この勝利のあと、恩賞が渡されます。しかし、この恩賞で大きな差が出てきてしまうのです。
平清盛は播磨守(播磨一国の長官)となります。一方の源義朝は左馬頭(馬屋の管理者)に任ぜられます。
どっちが位が高いと思いますか?それはもう播磨守ですね。
このように与えられた恩賞に差が出てしまい。源義朝は不満に思います。
しかも、平氏側は平清盛以外にも恩賞を与えましたが、源氏は源義朝ただ1人のみ恩賞を受けただけでした。
これは、源義朝の源氏はこれを面白くないと感じるのは当然の結果です。
さらにこの時、後白河天皇の側近同士でも争いが起きていたのです。
2.後白河天皇側近の争い
保元の乱の後、後白河天皇が天皇親政を行なっていました。
その際に権勢を誇っていたのが信西(藤原通憲)でした。
後白河天皇が二条天皇に皇位を継承し、上皇になった際に信西と藤原信頼が対立します。藤原信頼は藤原道長の実兄の家系の人です。保元の乱の際は後白河天皇側でした。
その藤原信頼と信西は勢力争いを展開していました。
藤原信頼と源義朝は近づき、結託するのです。
3.三条殿の襲撃と信西の死
まず、12月9日に藤原信頼とその同心武将ら(源義朝ら源氏等)の軍勢が院御所(上皇の居所)である三条殿を襲撃します。そこで後白河上皇・上西門院(後白河上皇の姉)の身柄を確保すると、三条殿に火をかけました。
この際に、一般官人などの犠牲者が出ましたが、信頼の敵である信西一門は逃亡していました。
後白河上皇と上西門院は二条天皇がいる一本御書所(上京区下立売通智恵光院西入北側)にいわゆる軟禁状態とします。これも諸説あり、書物『愚管抄』には信頼は後白河上皇を擁したとも言われています。
翌10日には、信西の子息(俊憲・貞憲・成憲・脩憲)が捕縛されました。
信西本人は山城国田原に逃れ、土中に埋めた箱の中に隠れました。しかし13日に発見され掘り起こされる音を聞くと、喉をついて自害しました。
この間、清盛は熊野詣に出ており、京都にはいませんでした。
4.清盛の帰京と二条天皇の六波羅行幸
清盛が熊野詣の途中の紀伊国で異変を知らされて帰京します。内大臣で信西とも親しかった三条公教が清盛を説得します。それと同時に二条親政派の藤原惟方と二条天皇を清盛の拠点がある六波羅に行幸しようという計画が持ち上がり、信西の従兄弟に当たる藤原尹明が密命を持って内裏に参入します。
その後、25日深夜に惟方が後白河上皇に二条天皇脱出計画を知らせると、後白河上皇はすぐに仁和寺に脱出しました。
翌26日には二条天皇が六波羅に移動しました。そのことを藤原成頼(信頼の弟)がこれをふれまったことで、公卿や諸大夫は続々と六波羅に集結し、官軍としての体制を整え、藤原信頼、源義朝追討の宣旨が下されます。
それを知った後白河院政派派大きく混乱します。義朝は信頼を「日本第一の不覚人」と罵倒します。
信頼、成頼は義朝とともに出陣しますが、源師仲(村上源氏)が保身のため、三種の神器の一つである神鏡を持ち出して逃亡しました。
5.六波羅合戦
今回の戦いはいわばクーデターのようなものなので、義朝が組織できた兵力は僅かであったといいます。
一方の清盛は内裏が戦場になるのを防ぐため、六波羅に敵を引き寄せるという作戦を立てます。御所近辺では激しくは戦わず、作戦通り平家軍は退却します。好機とみた義朝は追いかけ六条河原付近まで行きますが、あえなく敗退します。
山内首藤俊道、片桐景重らが必死の防戦をする間に戦場から義朝は脱出しました。
6.戦後
義朝は拠点である東国へ落ち延びようとしますが、尾張国で家臣の裏切りに遭い、そこでなくなります。
実はこの戦に鎌倉幕府初代将軍の源頼朝も参戦していました。
頼朝は逃げ延びている途中で父義朝とはぐれ、途中で捕縛されます。
一時は処刑を言い渡されますが、清盛の異母の池禅尼の助命嘆願により伊豆に配流となり、命は助けられました。
清盛はその後も京都の治安維持、地方反乱の鎮圧などの役割も平氏が管理となり国家の軍事、警察権も掌握しました。
清盛は武士で初めて公卿の地位につき、その後も一門から公卿が輩出し、平氏政権を形成、確立していくのです。
さあ、今回はここまでです。
写真がなくすごく見にくくて申し訳ないです。
来週からは京都のお寺一つを詳しく紹介していこうと思います!!
ありがとうございました。
ほなまた〜