長岡京を歩く #5
みなさんこんにちは、ゆうさんです。
今回は、勝竜寺城についてお話ししたいと思います。
歴史的な話もあるので、そこはできるだけわかりやすく書いていこうと思います。
ここ、勝竜寺城は延元4年/暦応2年(1339年)の南北朝時代(天皇が同時に2人いた時代)、北朝方の細川頼春が建てたとされてきました。
しかし、最近の研究では、室町時代の守護(昔の県知事みたいな感じの役職)であった畠山義就が建てたとする説が有力視されています。
そして、戦国時代末期に織田信長がここを当時居城としていた三好三人衆の1人、
岩成友通を攻めました。
この人物、主君であった三好長慶が亡くなったのち、後継者であった三好義継が年若であったため、後見役(主君が幼いので、代わりに政治などを行う補佐役)として台頭しました。
この戦いはあっさりと岩成友通が降伏、開城して終わっています。(4日ほどで終了したとも)
その後、織田信長の拠点の一つとしてここに細川藤孝(幽斎)が入城し、居城とします。
その際に改修工事を行い、宇治市にあったとされる槙島城と山城国の二大前線拠点としました。
ここ、勝竜寺城は細川藤孝の息子である細川忠興(上の写真左の人物)と
2020年大河ドラマ「麒麟がくる」で主人公であった明智光秀の三女、玉(のちのガラシャ、写真右の女性)の結婚式、新婚時代をここで過ごしたとされます。
その後、本能寺の変を起こし、山崎の戦いで敗れた明智光秀が近江に帰る前にここに帰城します。(ここを出た後、本来の居城である坂本城に帰る途中で亡くなったとされます。)
秀吉が天下人になった時には他のお城の石垣にここのお城の石垣が使われたりと
一時荒廃しました。
江戸時代には近代城郭として復興しつつありましたが、結局廃城となりました。
今は公園として整備されており、無料で入ることができます。
写真の目の前に広がる原っぱが本丸の跡地です。
綺麗に整備されていますね。
公園として整備されているだけあって、ベンチが多く、休憩ができます。
春になると桜が綺麗に咲き誇ります。
ほぼ満開の時の写真です。
乱れ咲とはこのことを言うのでしょうね、綺麗です!
さて、道路の名前にもとある方の名前が使われております。
それがこちらです!
その名も「ガラシャ通り」です!
この通りで11月の第二日曜日に「ガラシャ祭」でガラシャや忠興などが行列をなします。
その様子もご紹介していこうと思います!
さあ、今回はここまでです!
次回は、おそらく勝竜寺をご紹介しようと思います!
ほな、またね〜
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