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寿都鉄道クロニクル 第一部 いにしえの世界をタイムリープ

このブログ記事は、日本原子力文化財団の依頼により吉田 匡和さんに取材・執筆をいただいた記事になります。


かつて北海道には、たくさんの鉄道が運行していました。昭和20年の路線図を見ると、国鉄(現在のJR北海道)の他に、地方鉄道や簡易軌道などが存在していたことが分かります。その中でも後志エリアにあった寿都鉄道(黒松内〜寿都16.5km)は、「もっとも悲惨な終わり方をした鉄道」と語り継がれています。何のために誕生し、なぜ消えていったのか。原子力文化財団(JAERO)の協力を得て足跡を辿りました。


第一部 寿都鉄道に乗車


クロニクル(出来事の詳細な記録や報告)の旅を始めるにあたり、「スマホは使わない」という掟を定めました。道に迷った時も、おすすめの店も地元の方に訊ねるアナログスタイル。素敵な出会いに期待が高まります。

黒松内駅のいま

寿都鉄道の足跡を巡る旅は、JR黒松内駅からスタートします。1903(明治36)年11月3日に、北海道鉄道の駅として開業。1907(明治40)年7月1日に国鉄に移管されました。かつては特急も止まる有人駅でしたが、2002(平成14)年4月1日に無人駅になりました。

今では一日上下5本しか停車しない駅になっていますが、立派な駅舎は「昔の俺はイケていた」と主張しています。それもそのはず、寿都鉄道の分岐駅であるとともに機関区も併設する主要駅でした。跨線橋や広い構内に当時の面影が残っています。

夢を抱いて寿都鉄道は開業した

日本海に面する寿都は、明治時代からニシン漁で賑わっていました。そのため地元では輸送力拡大が図れる函館〜小樽線への連絡支線敷設が熱望されていました。

地元出身の代議士が鉄道建設を要請しましたが、「国会の決議が必要であり、早急には建設できない」と受け入れてもらえません。そこで民間で設立して政府に買い上げてもらう方針を採択。1918(大正7)年に資本金50万円を投じて寿都鉄道が創業しました。1920(大正9)年10月27日に鉄道が開通。黒松内駅から寿都駅に向かって8100型機関車が走り出しました。

中の川駅

黒松内を出発した列車は、3.9㎞走って「中の川駅」に到着します。寿都町へ向かう道道9号寿都黒松内線の「中の川バス停留所」を左に曲がり、橋を越えた場所にある「中ノ川地区集会所」に駅名標が設置されています。

田畑が広がるのどかな場所で、収穫時期を迎えた農機が忙しそうに動き回っていました。路線は朱太川に沿って寿都方面へ続いていたそうですが、すでに獣道と化し、鉄道の形跡は残っていません。

湯別駅

中の川駅から6.0㎞進むと「湯別駅」に到着します。駅名標は生活改善センターに設置されていますが、主要道路から外れているのでナビなしでは迷います。畑仕事に精を出すオトーサンに道を聞き、それらしき場所を探すも駅名票が見当たりません。なんと駐車したクルマの陰に隠れていました。

寿都町・総合文化センターウィズコム展示

寿都鉄道は海産物の輸送だけでなく、湯別駅から大金鉱山から産出した鉱物の積み出しも行われていたそうです。全盛期には北海道の中でも指折りの産出量を誇り、約400人が働いていました。1943(昭和18)年に閉山され人々は離散。今では小さな集落となっています。

樽岸駅

湯別駅から3.4㎞進むと「樽岸駅」に到着します。駅名標は樽岸会館に設置。国道229号に面しているためか、他の駅跡に比べて秘境感は薄れています。

寿都駅

写真提供/寿都町教育委員会(撮影場所不明)

樽岸駅を出発した列車は日本海を眺めながら、終点「寿都駅」を目指します。国道と並行する高台は寿都鉄道が存在した証。汽笛が聞こえる錯覚に陥りました。

終着駅の駅名標は町役場前に掲げられています。当時の面影を伝えるものは何もありませんが、寿都駅もこのあたりに設置されていたそうです。本来は「道の駅 みなとま~れ」がある場所の方が港や市街地に近く利便性が高いのですが、「列車の音に驚いてニシンが獲れなくなる」という漁業関係者の反対によって不便な場所に設置されました。

北海道博物館所蔵資料

大正末期から昭和初期の写真を見ると、ヤード(引き込み線)が多く貨物輸送が盛んだったことが分かります。記録には「国鉄に比べて運賃が高く、社員の給料も高かった」と残されています。

寿都鉄道の転落が始まる

寿都町出身の漫画家 本庄敬先生のイラスト(筆者所有のクリアファイル)

順調な経営を続けていた寿都鉄道でしたが、第二次世界大戦後、物価・人件費が高騰する中、物価庁から運賃改定の許可が得られず数年間据え置かれたまま。当然のごとく経営は悪化。寿都鉄道の転落が始まりました。

1952年に蒸気機関車よりも経費が安いディーゼル機関車を導入(営業用としては北海道初!?)するなど企業努力を重ねたものの、鉱山の閉山、ニシン漁の衰退、道路整備によるトラック輸送の増加、バス運行による鉄道利用客の減少により経営状態は青息吐息。さらに「泣きっ面に蜂」な出来事が襲い掛かります。経営が苦しくなっていたところに並行する朱太川が氾濫。湯別駅と樽岸駅の間の路盤が流出し、収入の2倍を超える経費を計上する大赤字に陥りました。

寿都鉄道はすでに四面楚歌。1965(昭和40)年のダイヤ改正以降は1日に1往復という有様。さらに冬期は除雪費用が出せず運休し、運行できたのは年間300日未満という「もはや交通機関とは呼べない」という状況にまで追い込まれました。運行できたとしても黒松内駅に国鉄の臨時列車があるとホームが使用できず、黒松内行きは旅客扱いをしない日もありました。

寿都町・総合文化センターウィズコム展示

例え片道運行でも銀河鉄道999のメーテルのような美女と一緒なら嬉しいですが、約16㎞も歩いて帰らなければならないとなれば利用するわけがありません。すぐに廃止されても仕方がない状況でしたが「ある事情」によって、バスやタクシー、採石など経営の多角化による延命治療が図られました。

1946年のピーク時に31万人も運んだ寿都鉄道は1968(昭和43)年8月14日に運輸相が運行休止の許可を出し、鉄道部門の従業員20名を解雇しました。資本金2000万円の会社の負債が2億5000万円に膨れ上がり、未払い賃金が長期にわたり発生するなど「最も悲惨な鉄道」として語り継がれています。

さよなら列車が走ることなくサヨナラ

寿都町・総合文化センターウィズコム展示

寿都鉄道が廃止されたのは、1968(昭和43)年と言われていますが、ホントのところ定かではありません。雪害で運休が続き、犬クギ(まくら木にレールを固定するクギ)も抜け、まくら木は朽ち、雪が解けても列車を走らせる余力もないなど、すでに鉄道は破綻していました。

寿都町・総合文化センターウィズコム展示

三人の機関区員の仕事は、訪れた鉄道ファンに19世紀に作られたアメリカ・ボールドウィン社製機関車を機関庫から引き出して見せることくらい。「さよなら列車」が運行されることもなく、消えるようになくなったのでした。

突撃!自分の昼ごはん

そろそろランチにしましょう。今回の掟に則り、ガソリンスタンドのおねーさんに「薦めたい店を教えて」と突撃!教えてくれたのは地元で人気の食堂に向かいました。
 
おねーさんお勧めの「焼肉定食」は、とてもボリューミー&デリシャス。焼肉は甘いタレで味付けされていて、ごはんにピッタンコ。お店を紹介してくれたおねーさんの特徴を伝えると、「〇△さんだ!」とバレバレ。とてもアットホームなお店でした。

第二部 バーチャルの力で未開通区間を開通させる に続く

取材・記事作成:吉田 匡和


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