不条理と抵抗の文学としてのシャニマス~変わらない世界と届く想い~

・はじめに

 私は今年の二月からシャニマスにハマりました。この3ヶ月余りで「薄桃色にこんがらがって」を始めとした色々なコミュを読み、その物語に惹かれたのですが、その理由の一つとして、シャニマスは悔しさに非常に寄り添ってくれる作品であるという点が挙げられます。
そのシャニマスにおける悔しさというのは自身の努力が公平な枠組み・価値観・ルールの中で評価されない状況で起こる事が多く、その上でその不条理な世界の枠組みの中で諦めずに戦うことにアイドルの輝きを感じるものでした。そしてそれは、同じように不条理が渦巻く現実の世界で生きる私達への共感の眼差しと優しさ、エールを感じるものでありました。
私はどうにかして自分が感じた感動を文章にしたいと考えて過ごしていたのですが、ある日次のような呟きを見かけたのです。

そう、これはシャニマスに全く関係ないカミュの『ペスト』に関するツイートなのですが、まさにこれこそが私にとっての「シャニマスとは何か」に対する答えだと直感したのです。『絶望(不条理)と向き合っては敗北する、それでも戦うのをやめないという人間のひたむきな命と勇気』、シャニマスが描いているものはこれだと感じたのです。
本稿では、シャニマスがカミュの『ペスト』で描かれたような、人間の不条理に対する抵抗を描いた作品だと自分が感じた理由を論じます。更に、シャニマスが描いていると感じる”世界は簡単に変わらないが想いは届く”価値観、最後に私がシャニマスから受け取るエールについて述べます。新参者の拙い感想文ですが、最後まで読んで頂けたら嬉しいです。(なお、話題には出しましたがシャニマスとカミュの『ペスト』の比較論は本文ではしません。※)

・シャニマスにおける不条理と抵抗

 シャニマスの世界では多くの悔しさが描かれています。敗北の悔しさを描く敗退コミュのあるW.I.N.G.編はプレイヤーがまず最初に触れるものですが、そこからして同じステータス(≒努力)でも流行という環境の運によって難易度が(初心者であればあるほど)劇的に変わってしまうのがシャニマスの面白く、かつ悔しい思いを重ねる原因でもあります。本稿に関わる点で特筆して述べたいのは、シャニマスはゲームシステムからして同じパフォーマンス・努力でも環境によって評価が変わってしまう、ある種不条理ともいうべき形での悔しさが発生する点にあると思います。(アイテムで流行操作も出来ますし、このゲームシステムは普通に面白いと思っています。システム批判ではありません、念の為)

では具体的にシャニマスではどんなコミュで不条理と悔しさが描かれているのか考えると「薄桃色にこんがらがって」と「Straylight.run()」がイベントコミュでは真っ先に上がるかと思います。この二つのイベントではユニット対抗のバトルイベントや雑誌オーディションにおける所謂”出来レース”が描かれています。審査自体の出来に関係なく優勝者が決まっている。自身の努力の評価としてあるべき結果が自身の与り知らぬ本番の舞台と離れた所で決定されているもどかしさ、悔しさ。このイベントに関わるアルストロメリアもストレイライトも(そしてプロデューサーも)、この不公平な枠組み自体を変える事は出来ませんでした。あさひが全く同じ振付でより精度が高いダンスをしても点数は却って低くなるし、プロデューサーが編集長に出来レースを抗議しても相手なりの理屈を説得して変えるなんて事は出来ませんでした。登場人物の論理や熱い気持ちが相手に届いて勧善懲悪的に不条理を変えるなんて事は起こらない。不公平な枠組みを変えることができない。この、不条理の枠組み自体を何も変える事ができず業界のルールに無力である、というのがシャニマスの特徴の一つであるように思います。

また、これは「きよしこの夜、プレゼン・フォー・ユー!」でどんなにアイドル達が真剣に走ったとしても、否、だからこそ出発の時間を真乃とプロデューサーが一切変更しなかった事と表裏一体であるようにも感じます。これは努力の評価に対する公平さという観点では例に挙げた二つのイベントとは寧ろ真逆の話ですが、アイドルの努力は予め取り決めたルール、もとい業界の枠組みやもっと言えば世界のシステムを変えることはできない、という事を「薄桃色にこんがらがって」と「Straylight.run()」と同じように描いたものと解釈できないでしょうか。
また、直近のイベントの「ストーリー・ストーリー」でも視聴者のウケ、視聴率の為には台本を用意したり、提案した筋書きにアイドルが乗らないなら悪意ある編集も厭わない数字至上主義な番組スタッフが描かれていましたが、ここでもアンティーカは結局自分達らしい物語を自身で作るという手段で番組制作サイドのユニットの姿を歪めた編集と対峙したものの、相手の数字至上主義自体を変えられたようには思えません。少なくとも今後は数字の為に出演者の望まないような編集を行う事をやめようと制作サイドが述懐するような場面はなく、アンティーカが提示した”ストーリー”に数字が取れる見込みがあると判断しただけである可能性が否めません。
同イベントコミュ中(第6話「もうすぐ帰ります2」)で「互いの正義が食い違うことだってある」とプロデューサーは話していますが、その正義の食い違いを自分側の正義に寄せて変える事は難しいというのがシャニマスの姿勢であるように思います。アイドル達は業界の不条理を変える、ということに関しては非常に無力なのです。

しかし、それでも、その不公平で不条理な枠組みのあり方を知った上でもシャニマスのアイドル達はその枠組みの中で戦うことを選んでいます。愛依とあさひがその枠組みに勝てなかったとしても、黛冬優子は「アイドルが戦うってのがどういうことか、見せてやる」と宣言し、出来レースのイベントに挑みます。自身の憧れの雑誌オーディションのグランプリが甘奈に内定していたとしても、桑山千雪はオーディションを受けます。
ストレイライトはイベントで勝てませんでしたし、千雪もアプリコットのグランプリには選ばれませんでした。ですが、こういった不条理に敗北した悔しさを、たとえ敗北するとしてもなお戦う勇気を描くからこそ、私はシャニマスの物語に感動するのだと思いました。不条理が変わらなくても挑みたい、変えられるから挑むのではなく、結果がどうなろうと、正当に評価されなくても、挑みたい。システムの歪さに悔しさを感じても、否悔しいからこそ挑みたい。報われるから、何かを変えられるから挑むのではなく、自身の存在と夢を賭けて戦う事それ自体に意味があって、結果ではなくその挑戦にこそアイドルを輝かせるものがある。

不条理への抵抗という美学、それがシャニマスの良さだと私は思います。

・変わらない世界の枠組みと変化を秘めた人

 シャニマスは不条理の枠組みを変える事に対して無力だと描いていると述べましたが、その一方で、"不条理の枠組みは簡単に変えられなくても人に想いを届ける事は出来る"という価値観を語っているのもシャニマスだと私は考えます。それを考える上で重要だと思うのがイルミネーションスターズの感謝祭シナリオです。
このシナリオではイルミネーションスターズの三人が番組ディレクターに「もう頑張ったらダメ」「アイドルは可愛いことがすべて」「ちょっとできてないところもある、今ぐらいがちょうどいい」と言われてしまいます。アイドル、特に女性アイドルに出来ない方が可愛げがあるとディレクターが話すのは現代社会にもある女性差別的な価値観(出来ない方が都合がいいという意味では例えばマンスプレイニングのような差別と根底で繋がるような価値観)を私は感じるのですが、この価値観というのがシャニマスにおいては不条理を生んでいると思われます。なぜなら、シャニマスで起こる不条理というのは、どうしようもない自然の摂理、神や運命といった宗教的な不可避の定めではなく、業界即ちアイドルの世界を動かす人間達が作ったルールやシステムに因るものだからです。アプリコット編集長は、やる前からグランプリが決まっていたとしても、あくまで「結果が先に出るか後に出るか」というだけで公正であるチャンスと学びの提供の場としてオーディションを捉えています。この価値観が出来レースを生んだ訳です。「ストーリー・ストーリー」の番組制作サイドも「先方が求めるのは、まずは数字」とプロデューサーが語った通り、視聴率という数字をまず第一に考える価値観から”ストーリー”の為にアンティーカメンバーの意思に反した歪め方をした編集をしたのでしょう。このように、シャニマスのアイドル達が対面する不条理は、天災のようなものでなく、誰かの価値観によるものです。

イルミネ感謝祭シナリオ「何度だって最高の晴れにしよう」で、感謝祭を見てイルミネーションスターズへ新しい仕事のオファーをした番組ディレクターに対して灯織は「人は、そんなに簡単に、考えを変えたりしないと思う」と話しています。
「薄桃色にこんがらがって」にしろ、「Straylight.run()」にしろ、「ストーリー・ストーリー」にしろ、灯織が語ったように「簡単に、考えを変えたりしない」からこそ、アイドル達は不条理に対して、それを変えられることなく不条理のまま立ち向かわなければならなかった訳です。人の考え、価値観はシャニマスの不条理の根本です。

でもその一方で灯織は同じコミュで「感謝祭で何かを感じてもらえたのも、多分本当」「きっと、今回の『可愛いだけじゃないイルミネーションスターズ』は及第点だったんじゃないかな」「そうやって、何度も出会う度に更新していくの」「『あの時で十分だった』なんてことはないんだって、知ってもらえるように」と語り、それに続けて「私たちは、そうやって伝えていけばいいんだね」と真乃が、「わたしたちが、証明するんだ」「昨日よりも輝いて、明日になった時にもーっと輝ければ」「アイドルは素敵になるんだってことを」とめぐるが語っています。
人の価値観は簡単には変わらないが、少しずつ想いや姿を届けていく事は出来る。そうすることでいつか私達の想いが届いて価値観を変える事ができると語られている。つまり、不条理の根本たる人間の価値観を変えられる可能性、その希望が語られているということだと私は思います。出来レースにしろ数字至上主義にしろ、アイドル達は不条理の仕組み自体を変える事は出来ませんでした。ですが、アイドルがファンに想いを届けるのと同じように、不条理をもたらす価値観に対しても想いを届ける事はできる。そして、人の価値観には変化の可能性がある。
「ストーリー・ストーリー」において、番組制作サイドの数字至上主義は変わらなかったのではないかと述べました。ですが、プロデューサーが同コミュエンディングで呟いた「伝わるんだな……」という言葉は、番組を観た人間に対してだけでなく、番組制作サイドに対しても言えると解釈できるように思います。アンティーカの提示したストーリーを受け入れた時点でも伝わっているとも捉えられますし、ネットの反応を見て、視聴者に伝わった事で番組制作サイドにも伝わった可能性もあります。イルミネーションスターズ感謝祭における番組ディレクターのように、「そんなに簡単に、考えを変えたりしない」としても、アンティーカは及第点をもらって、更新して、証明していく事で想いを届ける事が出来るはずです。
そして、「薄桃色にこんがらがって」の千雪の姿が甘奈に届き、「甘奈たちみんなで獲ったって思える」「結果が同じだったとしても、ひとりだった絶対……こんなふうにならなかった」「だから、頑張らなきゃいけないの」「ひとりじゃないから」と甘奈を名実共にアプリコットガールになれるように奮い立たせてくれたように、また、「Straylight.run()」であさひのダンス(とそれに対するイベント側の評価)が冬優子を奮い立たせ、冬優子のパフォーマンスがあさひと愛依の心に焼き付き、ストレイライトがユニットとして一歩を踏み出せたように、結果という形で報われなかった悔しさがそこにあっても、アイドルの不条理への抵抗は常に想いを人に届けている。
敗北が敗北のままでも、悔しさが悔しさのままだとしても、不条理と戦ってしまうアイドルの姿がそこにある。公平に評価されなかった事、負けてしまった事、傷ついた事、悔しかった事。その気持ちと事実が変わらなくても、人に想いを届ける事は出来る。そこに輝きがある。不条理な世界が変わらなかったとしても、その人の決意が届いた誰かを少しずつでも変えたり、幸せにしたり、強くする。シャニマスはそういった事が描きたいコンテンツだと感じるのです。
世界は簡単には変わらないけれど、想いはきっと届く。そしてイルミネーションスターズの感謝祭シナリオや「ストーリー・ストーリー」で描かれたように、世界の不条理を作るのが人の価値観である限り、想いを届ける事でいつか不条理も変えられる可能性がある。アイドルの想いは人を変え、不条理の価値観を変化させる可能性を秘めている、そう私は解釈します。

努力が無下にされるような不条理への悔しさを描く中で、想いはいつか届くとも描くのがシャニマスの世界観における希望なのだと感じます。

・シャニマスのエールについて

最後に、シャニマスに私が感動するのはなぜなのか、というまとめの所感を述べます。それは一言で言えば、現実の世界に生きている私達への共感の眼差しと優しさ、そしてエールを感じるからだと思います。

シャニマスが描いているのは、一人の人間の信念が世界を変えるといった壮大な世界観とは決別した物語の価値観だと思われます。悪を倒すヒーローや世界を変える英雄のように私達はなれない、だけれども、という前提がシャニマスにあるように私は感じるのです。私達は自分の生きる業界・社会、世界の大きな枠組みに対しては無力である事が多い、その価値観は良くも悪くも非常に現代社会的だと感じます。私達の努力が不条理な枠組み自体を変える形で勝利を掴み取る事は非常に難しい。
では、不条理な枠組みに従順になれという話かというとそうではなくて、これはまさに「薄桃色にこんがらがって」の千雪の姿で描かれた事ですが、例え不条理な枠組みが変わらなくても、努力が公平な形で評価されなかったとしても、挑みたい、努力したいという不条理への抵抗がそこにはあります。不条理の中での悔しさを受け止める優しさ、頑張れば望んだ通りに絶対に報われるという結末を用意しないのは、悔しいという気持ちにとても真摯であるというか、悔しさをいつか将来の糧になる幸せの元としての不幸にしないというか、グランプリを獲りランウェイにいる甘奈を見つめる千雪に対して甜花がそうしてくれたような、悔しさの隣にいてくれる優しさ、悔しかった出来事自体を無理にプラスにしようとしないでそばに居てくれる優しさがあるように思います。そして悔しさを悔しさのまま描いてくれる事は、努力の先に、悔しさの果てに、必ずしも物語のようなハッピーエンドを迎えられない私達の現実に対する共感と優しさだと私は感じるのです。

現実にエンドロールは流れない、それでも日々は続いていく。「ドゥワッチャラブ!」で千雪が語ったように。
不条理と戦う人間の現実は必ずしもハッピーエンドではない、むしろハッピーエンドの方が珍しい。戦った結果ハッピーになれなくても、それでも生活は続くし不条理は以前として生活をする社会に残り続ける。それを描く事は現実の世界で不条理と戦ってもハッピーエンドを迎えられなかった人々への優しさだと感じるのです。頑張れば絶対にハッピーエンドになると描かないのは、それでもその努力に、その抗いに描かれるだけの意味がある、輝きがあると示しているような気がするのです。同じ色のコンサートライトを振りながら、千雪の悔しさに甜花が寄り添ってくれたように、シャニマスは私達が生きてきた上で経てきた色んな悔しさにも寄り添ってくれているように感じます。
不条理への抵抗、生きる事はそれの連続で、でも抵抗の先が敗北であったとしても、悔しさしかなかったとしても、そこには輝きがある。そう私達にブランケットをかけてくれるような共感と優しさがシャニマスはある。そのエールは私に明日への勇気をくれる。これが私がシャニマスに今想う所のほぼ全てです。そんなシャニマスが私は大好きです。


※余談:カミュの『ペスト』とシャニマスについて

ここからは、本文では自身の力量不足を感じて書かなかったシャニマスとカミュの『ペスト』の共通点を『ペスト』の本に書いてあった解説の引用なども交えながら書いた部分になります。私はカミュの作品を今年の四月に初めて読んだのでシャニマスのみならずカミュの関しても歴が浅く、間違った事を書いてしまう恐れがあるのですが(余談に限らず本文でも誤りがあればご指摘をお願いしたいです)、冒頭で話したことでもあるので余談として書いた次第です。

カミュの『ペスト』は1947年に出版された、不条理な死を齎すペストとペストにより封鎖された町に住む人々との戦いを描いた小説です。
人間が絶対に敗北せざるを得ない死という不条理との闘いを描いた作品でもありますし、「ドイツ占領軍と闘う抵抗運動の物語としても読むことができる」「ペストを暴力や圧制や恐怖と考えれば、これはいつの時代、どこの国もあてはまる戦いの記録」(注1)であるとも言えます。特に『ペスト』をドイツ占領軍という人間が齎す不条理との闘いという読み方をするなら、これはシャニマスにおける不条理が人間の価値観によるものと述べた本文の解釈とも近しいものがあるのではないかと思います。

また、『ペスト』には「不条理の認識だけではなくて、反抗のモラルが示されて」(注2) います。しかし、「反抗すべき相手は根づよく、強力で、打ち破り難い。」「どんなに反抗をつづけても、その条件はなくならない。だから個人は行動のあとで絶望し、たとえ勝利をえても、それとともに敗北を味わわなくてはならない。」(注3)
といったように、敗北を避け得ない不条理との闘いを描いたのがカミュの『ペスト』であり、それは本文で述べたようなシャニマスのコミュ、特に「薄桃色にこんがらがって」で描かれた性質の物語だと私は思います。

また、『ペスト』には「世間に存在する悪は、ほとんど常に無知に由来するもの」「人間は邪悪であるよりもむしろ善良」(注4)という言葉もあります。これは学識がない・愚かであるという意味の無知でなく、まさに文字通り知らないという意味おいて、特に「ストーリー・ストーリー」でアンティーカが望まない形での編集がされた番組を観た視聴者の反応を彷彿とさせるものです。アンティーカはギスギスしている、センターかつリーダーは三峰、といった彼女達が思っている愛するユニット像とはかけ離れた解釈をされ、彼女達は戸惑い傷つきます。しかしリーダーの恋鐘は、そういった反応をしている人達は自分達を知らない人達であると話します。そして自分達を知らない人に知ってもらう為に頑張るのだとメンバーとプロデューサーに話すのです。これはシャニマスが不条理も価値観の相違から起こることだと描写する所やイルミネ感謝祭におけるイルミネの番組ディレクターへの姿勢にも通ずる所があるように思います。自分達が傷ついたり悔しい思いをする原因は自身を不幸にしようと画策する悪人がいるからではなく、その人が知らない事に起因するといった価値観をシャニマスは持っているように思います。

それから、『ペスト』では「美しい行為に過大の重要さを認めることは、結局、間接の力強い賛辞を悪にささげることになると、信じたい」(注5)という価値観が語られています。これは主に有志の街の人々で構成された保健隊に対しての評価の話で、街の人々の善意を以って彼らが行った衛生活動を実際以上に評価する事は却って良くないと述べている部分だと私は解釈しています。
ここで思い出すのは「きよしこの夜、プレゼン・フォー・ユー!」でプレゼントを落としたサンタの為に、との思いで奔走した283プロのマラソンリレーの事です。このコミュでは人助けをしていた、という事情を知っていてもなお、プロデューサーは「それは、ナシだよな?」と真乃に問いかけ、真乃もそれに同意します。ここでは、そこに至る過程にどんな善意が込められていたとしても善意の尊さを以って努力の評価の枠組みを変えるべきではない、それは善意の尊さをないがしろにするものだ、という点で『ペスト』で描かれたものと近しいものが描かれているように感じます。

以上のように、シャニマスとカミュの『ペスト』は価値観において共通しているものが多い作品だと私は考えます。ただ、一つ違いを挙げるのであれば、カミュの描いた不条理は死という絶対に避けられない不条理でありますが、シャニマスの描いた不条理は変革の可能性を秘めた人間の価値観によるものです。カミュは絶対に敗北を避けられない不条理の中で戦いを続ける事を描き、そこに私は美しさを感じ、勇気をもらいます。一方シャニマスは敗北を強いられる不条理というテーマと共に、いつか想いは届くという希望がある事で、不条理にも勝てる可能性が残されている、そこにカミュとはまた違う勇気と希望への祈りが込められているように思います。


注1 世界文学全集39、発行者佐藤亮一、1967年、新潮社、537Pから引用
注2 同上
注3 同上
注4 同上 206P
注5 同上

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