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「もう、お弁当にブロッコリーとミニトマトは入れないで」

「もう、お弁当にブロッコリーとミニトマトは入れないで」

以前、ある方のエッセイか何かで見かけた、高校生の娘さんに言われたというこの言葉。

正しくはウインナーも入っていたかもしれないけれど、とにかく、お弁当を作る身としては、彩りやスペースを埋めるため毎日のように入れているブロッコリーやミニトマトを入れないで、だなんて。と、我が子に言われたわけではないのに、とても衝撃的に感じた。それは、そうだよなと理解できるごもっともなご意見、と言うよりも、薄々感じていたけれど、という確信犯的な罪悪感からなのかもしれない。


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お弁当のセオリーとして、茶、緑、赤、黄の基本4色のおかずを入れる、というものがある。

メインのおかずと卵料理で茶色と黄色は特に意識することなくクリアできても、緑色は子供の好き嫌いが関係してくるし、赤色はそもそもバリエーションが少ないので、緑色と赤色は意識的におかずを作らないと、いわゆる「茶色っぽいお弁当」になってしまうのだ。

だから、比較的好き嫌いの好きないブロッコリーとおかずとおかずの隙間にぴったりなサイズ感で入れるだけでOKなミニトマトはお弁当のスタメンとして多くのお弁当に君臨しているのだ。

でも、確かに、茹でただけのブロッコリーやミニトマトが毎日毎日、何年間も入っていたら、と考えたら自分でも流石に辟易とすると思う。


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先日、娘のお弁当を作るついでに自分の分のお弁当も作ることにした。

そろそろ、4時間目の授業が終わる頃かな、と同じお弁当を机に広げているであろう娘のことを思い出しながら、12時過ぎにお弁当の蓋を開いて、ひとつひとつのおかずをゆっくりと味わってみた。

久しぶりに食べた自分の作ったお弁当は思いの外美味しく、小さな箱の中にきれいに並んだひんやりとしたごはんは新鮮な感じがした。

でも、やはり、作り立てとは違って、時間が経ち冷たくなったおかずの味わいの変化に色々と思うこともあり、反省の意味も込めて、たまには自分の作ったお弁当を食べるのも悪くないな、と思った。

作る側としての言い分と、食べる側としての気持ち、どっちも大切。

お弁当の話だけではなく、物事にはあちらとこちら、はたまたそちらなど色々な立場から見える世界がある。多分、その視点が多ければ多いほど、固執している自分の考えをほぐしやすくなり、しなやかでいられるのだろう。そして、相手の立場に立つと言うことは、より深く自分を知ることとも近しいのだと思う。

そういえば、私が好きだな、と思う人たちはいい意味で執着がない。あれはきっと視点の切り替えや豊かな想像力が連れてくる優しさなのだろう。

そんなことと明日のお弁当の緑と赤のことを思いながら、おやすみなさい。いい夢を。

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