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アルクユニバース 遠野編
まずはこの動画を見てほしい。
この動画は2024年の8月にバーチャルYouTuberの月ノ美兎委員長が公開した動画である。今回の記事は前回の岩手旅行の続きなのだが、実は最終目的地を遠野にしたのはこの動画の影響もあった。
ご存じの方も多いだろうが、岩手県の遠野市は「民話のふるさと」として知られている。柳田國男の『遠野物語』に収録された話をはじめ、様々な民話が伝承されており、それにまつわる施設が多く存在する。今回の旅の3日目は遠野の町を巡りながら『遠野物語』の舞台となった遠野の文化や歴史を感じる1日にした。
遠野さんぽ
今回は町の中心部に宿泊しており、博物館などが開くまで余裕があったので、朝食後に遠野の町を歩いてみることにした。
中心市街地の端の辺りには寺院が集まっている区画になっていた。この辺りの寺院には博物館に展示されているような供養絵額が実際に奉納されているところもある。また、寺院の周辺には墓地が広がっているのだが、そこに刻まれている文字を見ると「菊池家」と書かれている墓石が多いことに気づいた。調べてみると、肥後国(熊本県)菊池郡発祥の菊池氏は、南北朝時代以降の様々な時期に遠野に来て土着した。明治時代になると天皇中心の政治体制に転換したことで菊池氏の名誉が回復され、平民も苗字を名乗れるようになったことで菊池姓を名乗る人が多く現れたようだ。
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遠野はかつて城下町であったこともあり、歴史的な街並みが見られるエリアがあり、ここには城下町資料館もあった。ただ、朝が早かったのでまだ営業していなかった。
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しばらく歩いていると、中心部の通りで交通規制が始まった。地元の人たちが集まってきたので何が起こるのかしばらく待っていると、出初式を実施するという案内がかかった。出初式(でぞめしき)は、日本の消防が1月初旬に行う仕事始めの行事の様なもので、各地の消防組織で行われている。挨拶の後、遠野市消防本部や消防団員が通りを行進し、その後は消防車や救急車、消防団のポンプ車などの車列行進が行われた。以前、東京消防庁の出初式をテレビで観たことはあったが、実際に出初式を見たのはこれが初めてだった。遠野には11の分団があり、遠野、綾織、宮守など釜石線の駅名にもなっており『遠野物語』にも現れる地名が読み上げられると、知らない町のはずなのに、何となく親近感を覚えた。
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出初式を見終えると昼近くになっていた。博物館などは午後に行くことにして、昼食は通り沿いにあった「お休処 やおちゅう」で食べることにした。実はこの店は遠野に着いた日の夜に見つけていたのだが、その日は既に閉店しており、以来ずっと気になっていた店だった。
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この店はカレーとコーヒーが売りの店らしいので、僕はキーマカレーを注文した。豆がたくさん入ったキーマカレーは食べやすく、とても美味しかった。食後にはブレンドコーヒーをいただいた。
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とおの物語の館
遠野の市街地の中心部に近い「とおの物語の館」に入ってすぐの「昔話蔵」には、様々な昔話を題材にした展示がされている。ここでは有名な昔話の場面を描いた大きなイラストや、昔話の世界を組み合わせて新しい話を作るといったコーナーがあった。冒頭の動画の中では「五大昔話」として「桃太郎」、「猿蟹合戦」、「花咲か爺」、「舌切り雀」、「かちかち山」が挙げられていた。
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動画で委員長が言っていたように、話の残虐性が影響しているのかわからないが、五大昔話の中で「かちかち山」だけが一切触れられておらず、他の昔話と扱いが異なっているようだ。とは言え、猿蟹合戦も復讐で猿は殺されてしまうし、「舌切り雀」もお婆さんが雀の舌を切るという点では残酷な場面があるのだが、この施設では展示されている。
旧高善旅館と『遠野物語』の誕生
同じ敷地に隣接する旧高善旅館は柳田國男が遠野に滞在する際に利用していた旅館で、国の登録有形文化財にも指定されている。
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柳田國男は1875年(明治8年)に現在の兵庫県に生まれた。東京帝国大学法科大学政治科を卒業後に農商務省に入省。役人として全国を巡る傍ら各地に伝わる伝承に関心を持つようになった。柳田は1908年(明治41年)に遠野出身の学生で作家でもあった佐々木喜善と知り合あい、彼の出身地である遠野に昔から伝わる話について何度も聞き取り、文章としてまとめた。これが遠野物語の原型となる。
翌1909年(明治42年)8月に柳田は遠野を初めて訪れた。まず、上野から東北本線の夜行列車に乗り、翌朝に花巻駅に到着した。花巻から遠野に至る鉄道(岩手軽便鉄道)は当時まだ開通しておらず、柳田は人力車に乗って村々を経由し、夜8時に遠野に到着した。彼は高善旅館を拠点に馬を借り、数日かけて遠野の各地を巡って調査した。
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こうして集められた119の話は『遠野物語』として1910年(明治43年)に自費出版された。その後も柳田は各地の農山漁村をめぐるフィールドワークを重視した調査を行い、日本における民俗学の基礎を築いた。
遠野市立博物館
遠野の文化や風俗に関しては同じく市の中心部にある遠野市博物館に詳しく展示されている。遠野は花巻と釜石を結ぶ街道の中継地として発展し、かつては馬の産地としても知られていた。明治時代には軍馬や農耕馬とするための馬の市が開かれ、多く人で賑わった。遠野の人々は曲がり屋と呼ばれる家で馬と近い環境で暮らしていた。
オシラサマ
「オシラサマ」は遠野など東北地方の北部で見られる信仰で、女と男、もしくは馬の顔をかたどった木製の像を家に祀るものである。オシラサマには着物を着せることが多く、小正月(旧暦1月15日)などにオシラサマを「遊ばせる」儀式であるオシラサマアソバセを行う家もある。オシラサマについては蚕の神、農業の神、馬の神など地域や家によってさまざまな言い伝えがある。
オシラサマの由来については諸説あるが、『遠野物語』69話には馬と娘との婚姻譚が記されている。「ある農家の娘が飼い馬を愛しており、ついには夫婦になってしまった。娘の父親は激怒し、馬を殺して桑の木に吊り下げた。娘は馬の死を知るとすがりついて泣いた。すると父はさらに怒り、馬の首をはねた。すかさず娘が馬の首に飛び乗ると、そのまま天に昇ってしまった。こうしてオシラサマは生まれた。馬を吊り下げた桑でその像を作る」
また、遠野物語の出版後に佐々木喜善が出版した『聴耳草紙』では、天に昇った娘が両親の枕元で蚕の育て方を伝えたと記されている。
喜善はその後民話収集の傍ら、土淵村の村会議員や村長を務めるが、慣れない重責に対しての心労が重なり職を辞した。その後一家で仙台に移住するも、生来の病弱もあって1933年(昭和8年)に数え年48歳で生涯を閉じた。彼は生前、同じ岩手県出身の作家である宮沢賢治とも親交があった。執筆中の「ザシキワラシとオシラサマ」に賢治の作品「ざしき童子のはなし」を取り上げるために手紙を送ったことがきっかけとされている。今回の旅行に来て初めて佐々木喜善の存在を知ったのだが、賢治の出身地である花巻は今回の旅行の1日目に訪問しており、不思議な縁を感じた。
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オシラサマ以外にも様々な展示があったのでその中で特任印象に残ったものを紹介する。江戸末期から明治時代にかけて、遠野周辺では「供養絵額」という亡くなった人が死後も生活している姿を描いた絵を神社に奉納するという習慣が存在していた。一見すると木の板に描かれた色鮮やかな絵画のように見えるが、よく見ると描かれている人の戒名や命日が記されている。供養絵額の習慣は写真の普及によって遺影が主流になると見られなくなった。
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また、館内には遠野の伝統的な神棚も展示されているのだが、よく見ると鏡餅や御神酒が供えられており、単なる展示物ではなく、現在に生きる信仰対象であることを強く感じた。
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さらば遠野
気が付けば日は傾き、そろそろ帰りの列車の時刻が迫ってきた。売店で帰りの夕飯になりそうなものを買う。待合スペースには大きな荷物を持った帰りの観光客の姿が多く見られた。駅員にきっぷを見せて改札を抜ける。石積みを思わせる重厚なおもむきのある駅舎も相まって、昔ながらの友人改札は非日常と日常の境界をなしているようだった。
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やってきた2両編成のディーゼルカーに乗って1時間ほどで新花巻駅に到着した。新花巻駅からは東北新幹線に乗り換えて自宅まで戻った。
今回の旅行では街を散策する時間をなるべく設けることを意識した。知らない街に行って、知らない景色を見て、知らないものを食べる。おそらく一生をかけても世界はおろか日本のすべての市町村を訪問することすら難しいだろう。でも、裏を返せば巡る楽しみが尽きないということなのかもしれない。2月19日に発売された月ノ美兎2ndミニアルバム『310PHz』に収録されている「アルクユニバース」にはこんな歌詞がある。
世界は広すぎて歩ききれない。でも歩ききれるよりずっと素敵でしょう。