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レプティリアンも銀河家族の一員である

種全体に責めを帰すのは正しいか?

 デーヴィッド・アイクの本を読まれた方はご存知でしょうが、レプティリアンの悪行を記述していても、彼はレプティリアンを憎んでいないし、蔑んでもいない。

 彼は、レプティリアンの種族全体に、悪行の責めを帰そうとは全くしていない。

 これは、重要だ。

 レプティリアンが地球人類に対して悪行・非道を行ってきたからといって、レプティリアン全体に責めを負わせるのは、間違っていると思う。

 それは、公正さを欠いています。

 ここに自分の民族を当てはめて考えてみれば、わかるのではないだろうか。

 種族の一部の人間たちがやってきた悪行を、全くそれに関与していない人まで責めを負えと言われたら、「ちょっと待ってくれ。この種族には善良な人たちもいる」と言いたくなるだろう。

“私がレプティリアンを語るとき、それは、人類を傲慢に操作しようとしているレプティリアンのことだけであって、「種全体ではない」。レプティリアンの種族に属していても、われわれの呪縛を解く手助けをしてくれる者は多い。人類を操作しているレプティリアンにしたところで、第五次元の力に支配されている。”
(『大いなる秘密 下』三交社、2000、p,513)

 この指摘は、とても大事です。

善良なレプティリアンとレプティリアンの血統に生まれた善良な人々

 地球方面は非常に少ないとはいうものの、銀河には、善良なレプティリアンもいます。

 また、以前、アイクの本に依拠して述べましたが、ケネディ家とダイアナ妃のスペンサー家はレプティリアンの血流です。

 この点は、JFK Jrやダイアナ妃を称賛し、愛する人たちが、意図的か、無意識的にか、触れない点です。

 単に、家系をしっかり調べたことがないだけという可能性もあります。

 彼らがレプティリアンの血流というのは、大きなパズルの一ピースであるので、否定し、無視してよいことではない。

 善良な人もそうでない人も、エリート家系の大半はレプティリアンの血統です。

 なぜなら、彼らが大元の地球文明を作っているからです。

 もちろん、スペンサー家とケネディ家がレプティリアンの血統だからといって、家系と個々人は区別して見るべきでしょう。

 とはいえ、レプティリアンのアジェンダに逆らえば、エリート家系だろうが、容赦なく消されるのは、JFKとダイアナ妃の記事で述べた通りです。

 ただ、ケネディ家とスペンサー家の歴史を踏まえると、JFK父子とダイアナは、家系に光をもたらすために生まれたように、私は感じます。

 JFKとダイアナ妃は、家系の人々が受けてきたマインドコントロールを受けて育ちながらも、長じて、その支配から脱して、愛と光を放つようになりました。

 家系の歩みを踏まえると、驚異的かつ奇跡的なことです。

 彼らの偉業は、血統の歩み・歴史を踏まえなければ、見えてこないことです。

血統や家系から自由になって、個々人を見る

 また、レプティリアンが血統に異常に執着することから、問いを引き出すならば、血統・家系・血縁から自由に、個々の人を見られるか。

 本当に我々はこういうものから自由なのでしょうか?

 それにとらわれているなら、その方面の洗脳に、いまだにかかっていると言えるでしょう。

 「レプティリアンの支配を脱する」というのは、いろんな形があり得ますが、一つには、血統・家系ではなく、一人一人を、根源意識・創造主のユニークな表現と見られるかどうか、です。

 常に、目の前の人を、ユニークな存在と見る、これは、地球人の大半にとって、容易なことではないと思われます。

 私にとっても、依然、チャレンジングな事柄です。

 なぜなら、何かレッテルを貼って、「あの人はこういう人だ」「あの人は過去こうだったから、今もこうだ」「○○家の人々は、大体こうだ」と見る方がラクだからです。

我々にも、レプティリアンの遺伝子は入っている

 また、我々にもレプティリアンの遺伝子は入っています。

 地球人類に、爬虫類脳があり、これは我々の感情と行動を司っています。

 だから、レプティリアンの種全体を、否定的に見ることは、とても広い見方からすれば、自己の否定にもなり得る発想です。

 逃走―闘争反応に陥りがちであれば、あるいは恐怖から行動するのがパターンとなっているならば、果して、レプティリアンの支配から自由になったと言えるでしょうか。

恐怖か愛か、牢獄か自由か

 レプティリアンの、地球人類を操作し、支配しようとする行動はすべて、彼らが自分自身を愛せないことから発していると、アイクは指摘します。

“あるがままの自分を愛して初めて、あるがままの他者を愛することができるようになる。だから私は、イギリス女王も皇太后も、チャールズもフィリップも、ピンダーも、ヘンリー・キッシンジャーやジョージ・ブッシュやエドワード・ヒースも、その他すべてを愛している。彼らが自分を愛することさえできれば、悪夢は終わる(彼らの悪夢も)。それができなければ、無限の魂(純粋な愛)との心のつながりは閉じたままで、彼らは同じ姿勢、同じ行動を永遠に表現し続ける。”(p,513)

 このように言うところが、彼を他の陰謀論者と大きく異なる存在にしている点だと思われます。

 なぜ、アイクはこう言うのか。

 彼は物事が振動の周波数・波動で成り立っていることをよくわかっているからです。

 ある周波数を抱いていれば、同じ周波数を抱いている現象・人を引きつける可能性が高くなります。

 自分が怒りを、年中、抱いていれば、あるいは強い怒りを抑圧していれば、周りに怒りっぽい人がたくさん出る、そんなことも起こり得る。

 大抵の人は、非道の直視から、怒りや憎しみを抱いて、低い波動に落ちがちです。

 それは、外側ではなく、内側の問題です。

 レプティリアンに対して、怒り、憎しみ、蔑みをずっと抱くことは、誰にとってもプラスにならない。

 動画サイトやSNSやブログなどで、レプティリアンを嘲笑する人たちは少なくない。

 それも無理からぬことだが、御自身のためにも、やめた方がいい。

 なぜなら、低い波動に自分を落とし込む行為でしかないからです。

 憎しみや怒りは、低い波動のエネルギーであり、それこそ、レプティリアンが望むものです。

 暴力に対して暴力を用いることには、「最低限の知性の閃きすらない」(p,513)と、アイクは指摘します。

 それでは、彼らの支配を、究極的には、終わらせられない。

“もし、レプティリアン=ブラザーフッドのこれ以上の地球に対する侵略と支配を止めるために、彼らのホームグラウンドで、嫌悪、攻撃性、暴力を使って闘おうとしているなら、そんなことは忘れたほうがいい。勝負は見えている。”(p,516)

 では、どうしたらいいのか。

 “ブラザーフッドが発想すらできないような周波数帯、すなわち愛の周波数帯から嫌悪・攻撃・暴力解消の試練をすれば、世界は変容し、レプティリアンの支配はなくなる。”(p,516)

 この理由について、彼はこう述べる。

“まず、愛に対して心を開けば、心臓のチャクラがものすごいスピードとパワーで回転し、われわれの人間としての意識の周波数が上がり、生命の最高の霊的表現である純粋な愛となる。魂が純粋な愛となり、われわれは、多次元の自己の持つ恐るべき力と再び結合する。”(p,516-517)
“速くて短い愛(Love)の波長は、われわれのDNAにある「触角(アンテナ)」をも活性化させる。われわれは再び宇宙と結ばれ、開いた心臓のチャクラは地球、太陽、そして銀河の中心から発せられている宇宙の鼓動(パルス)に同調し、変化する鼓動をわれわれの脳や、全身の細胞に送り込む。そうなれば、われわれの精神、感情、物質としての形態は劇的に変容し、この信じ難い変化と進化のときにあって、すべてが速まりゆく振動数と同調する。”(p,517)
 “あとは個々人の周波数に飛躍が起こり、われわれを恐怖という霊気の迷穴から引き抜いて、低層四次元をはるかに超えた水準へと連れて行ってくれる。そう、レプティリアンの支配はここに終わる。彼らは、いわば別のラジオ局にいるようなものになる。彼らは彼らなりの光明への途上で、自分たちの行動の結果と対面するしかない。選択はわれわれにある。
 恐怖か愛か、牢獄か自由か、だ。” (p,517)

愛し、許すが、意思の押しつけには、はっきり”NO”と言う

 アイクの本を読んでいると、非道・悪行を直視しつつ、高波動を維持したあり方ができるのが、よくわかります。

 では、どう考えれば、レプティリアンもギャラクティック・ファミリー(銀河家族)の一員と考えられるか。

 それは、彼らの歩みをきちんと理解した上で、彼らを愛し、許すことによってです。

 アイクの本は、そのヒントに満ちている。

 人身売買や悪魔崇拝儀式に子どもが犠牲になっていることを取り上げ、「こんな非道をしている奴らを、愛し、許せと言うのか」と、怒りや憎しみを煽るようなことを書いている人を見たことがあります。

 その人自身は、基本、ポジティブな人です。

 アイクの考えを踏まえれば、「そうだ。愛し、許すことが必要だ。彼らは自分自身を愛せない哀れな存在だからだ。彼らを愛すれば、愛の波動を出せば、彼らの支配は終わる。愛は支配しないからだ」となります。

 ただ、彼は、こう注意を促すことも忘れません。

“許し、愛すると言っても、彼らのしていることから目をそらして、そのままにさせておこうということではない。彼らは自分たちの意思を押しつけようとしているのだから、それに異を唱えるのはまっとうな大義のあることだ。”(p,518)

 この点は、光や愛を語って、この世の不正から逃避あるいは無関心を装う、スピ系の人たちとも、異なる点です。

 アイクは、周波数のことを考慮しながらも、この世の次元で、現に起きていることから、目を逸らすことはしない。

 特定の見方に埋没せず、多様な見方を幅広く見ていくあり方は、とても大事だと、思わされます。

「我々対彼ら」という発想こそ、レプティリアンが注入したものでは?

 以上のことを、別の観点から述べてみましょう。

 「奴隷になっていた地球人VS支配していたレプティリアン」、この「我々 対 彼ら」という発想をしている限り、レプティリアンの支配を超えることはむずかしい。

 これは、愛と真逆の、分離の発想である。

 自分の怒りや憎しみをぶち込める、都合のいい概念がレプティリアン、そんな風になっていないだろうか。

 憎悪と偏見を煽るのは、ナチスがやった手と何が違うのだろうか。

「我々 対 彼ら」という分離の発想をし、怒り・憎しみをレプティリアンに向け、彼らの悪行と彼ら自身を混同している間は、結局、レプティリアンの支配・洗脳から抜けていないことにならないでしょうか?

 まさしく、それが、彼らがずっと、地球人に対してしてきたことなのだから。

 「分離の発想」を維持したままでは、せいぜい4次元ぐらいまでしか、行けない。それが、一つの考え方だとわかっていればいいけれど、それが現実だと思っている間は無理だろう。

 「怒りや憎しみを抱くべきではない」と言いたいのではない。

 ここがむずかしいところです。

 それが湧いてくるのはある程度は自然だし、ある程度は無理からぬことだ。

 だが、本当は自分を省みるべきなのに、外に投影していないか、ということを言っている。

 自分の怒りや憎しみを、レプティリアンにぶつけたところで、それらが消えるわけではない。

 仮に、レプティリアンがいなくなっても、また別の対象を見つけ出すだろう。

 そういう発想全体こそ、直視すべきことなのかもしれない。

 レプティリアンに加え、レプティリアンのハイブリッドや著名人を嘲笑する姿勢も、正直、どうなのだろうと思い始めています。

 ロンメル死と思われる報道を見て喜んだり、支配者層の没落や消滅を渇望して、とても汚い言葉で罵り、嘲笑する行為は、愛と一体、どんな関係があるだろうか。

 それは、(非道をしてきた)レプティリアンと何が違うのか。

 確かに、レプティリアンのことを知った数ヶ月前は、私もロンメルを喜んでいました。

 でも、今は、「ちょっと待てよ。それって、人としてどうなの?」と思っています。

 その行為は、最も高い愛や調和の基準に合致するだろうか。私にはそうは思えない。

我々自身が、自分を牢獄から解放する責任を持っている

 さらに、レプティリアン・ブラザーフッドによる支配について、我々には全く責任がないのだろうか。

 レプティリアン・ブラザーフッドによる支配が、「われわれが心や力や責任を投げ出すことで生じているのなら、また、他人も同じことをしているではないかと主張することで生じているのなら、責めるべき相手は「われわれ自身」(p,518)だ」と、アイクは指摘する。

 こういう指摘は、「レプティリアンと自分は、完全に別」と考えたい人にとっては受け入れがたく、厳しいものに感じられるかもしれない。

 これもまた、分離の発想だ。

 先の言葉に、アイクはこう続ける。

 “われわれが自分たちの力を取り戻し、自分とお互いとを、思考と信仰と生活様式の牢獄から解放するなら、ブラザーフッドが何をしようと問題にはならない。これによって中央からの支配は不可能になる。多様なものを中央支配することはできないからだ。支配できるのは、均一なものだけだ。”(p,519)

 そして、地球上の生活を変容し、レプティリアンによる人類の心の支配を取り除くポイントを三つに絞って、こう述べる。

“①他人がどう思っているかと恐れることをやめ、たとえそれが「標準」からはずれていたとしても(いや、はずれていればこそ)、自分だけにしかない見方や生活様式を表現する。この時点でわれわれは、群れに従う羊であることをやめられる。

②他人にも、笑われるのではないかとか、周囲と違うことの罪を責められるのではないかといった恐れなしに、同じことをさせてやる。そうすることでわれわれは、群れのなかの他者に対する牧羊犬であることを止める。また、圧力をかけて、正しいと考えられる枠にはめるのをやめられる。

③自分の信じることを他者に強制しない。常に自由意志と自由な選択を尊重する。”(p,519)

 もし「愛だけが真実」で、他は何もかも錯覚なら、こういう分離の発想、特定種族に憎悪を帰着させる発想から脱却すべきだし、それがむずかしいのはなぜなのかを考える時なのかもしれない。

 “ポイントは、より高い次元に接続する少径をきれいにしてやることだ。そうすることで、最高水準の知恵、愛、ひらめきとつながることができ、それに導かれて、あなたは自分にとって最適なことをするようになる。

 タバコの煙りが充満した部屋に座り込むことも、新しい政党を立ち上げることも不要だ。低振動数の感情(=恐怖)という卵の殻を取り除けば、霊的牽引力の法則が、この惑星を変容するのに必要なあらゆる人と組織に結びつけてくれる。われわれが正しい状態になれば、世界も正しくなるはずだ。なぜなら、われわれは世界であり、世界はわれわれだからだ。いわゆる社会なるものは、人間の思考と感情の総体であり、われわれの姿勢の反映だ。われわれの姿勢が変われば、社会も変わる。”(p,519-520)

 どうあるかというあり方がすべてを決める。

 アイクは、こういう姿勢から、レプティリアンの地球支配を調査・研究し、本を書いてきた。

 そして、彼の他の本からも、方法や行動はどうであれ、これは、我々みんなに可能な変革である。

我々はいまだ進化の途上にある存在

 スコット・マンデルカー『宇宙人の魂をもつ人々』(徳間書店。ヒカルランドより新装版が刊行予定)という本がある。

 ETの魂をもって、人類の進化を後押しするために、地球に転生してきた人たち――ワンダラーと言う――にインタビューすることで、心理学だけでは説明のつかない、遊離感や疎外感を抱きながら、人々のために役立とうとしている人たちの意味について考察した本である。

 ここでも、大きな危機に直面した時、私たちにできる一番の準備が内面的なものだと説いている。

 “どんな危機も刺激となる挑戦をもたらすように、当面の危機も私たちの真価を問う課題となるが、私たちにできるいちばんの準備は内面的なものだ――すなわち、私たちの価値と、私たちがこの地球上に生きている理由を知ることだ。仏陀の説いた〈八聖道〉の根本教義では、”正しい見方(正見)”は中心となるファクターと考えられていた。要するに今後10年間は、地球規模の事件をバランスよく見て、きっかけを正しく用いることが私たちの精神成長の鍵になるということだ。”
(スコット・マンデルカー『アセンション版 宇宙人の魂をもつ人々』徳間書店、2008[原書2001]、p,179)
[ちなみに、『アセンション版 宇宙人の魂をもつ人々』(原題:Universal Vision)は、『宇宙人の魂をもつ人々』(原題:From Elsewhere)の続編にあたる]

 自分の内面を整え、最高水準の知恵、愛、ひらめきとつながることができれば、何をすればよいかは、自ずと、明らかになる。

 外側のことに関心を持つことは大事だが、同じくらい重要なのが、内面を整えることだ。

 植物にたとえれば、必要な水やりをして、適切なケアをすることが欠かせない。

 心に嵐が吹き荒れていて、どうして、調和的な関わりができるだろうか。

 もちろん、それは、時に容易なことではない。

 特に、身近な人に、真心から真実を伝えたにもかかわらず、狂人扱いされたり、罵倒されたりした時には。

 そういう時にこそ、恐怖や怒りに屈するのではなく、愛という周波数、レプティリアンたちの思い及ばない周波数に自分をチューニングすることができれば、見える状況をすぐに変えることはできなくても、自分の心に平和を取り戻すことはできるかもしれない。

 智子@第444代目さんのtweetされる高次元存在の述べる考えに照らせば、「目覚めた」地球人もまた、いまだ進化の途上にある。

 むしろ、「目覚め」は一回限りのことではなく、不断のものだと言えるかもしれない。

 この広い銀河で、レプティリアンが地球人類に対して果たした役割とは何か。

 “彼らは、永遠に進化していく途上のわれわれに贈り物をくれたのだ。恐怖すること、無限のパワーを別の者に与えることの結果を体験するという贈り物だ。相手は親でも上司でも、同僚からの圧力でもよい。あるいは究極的にレプティリアン=ブラザーフッドでも同じことだ。”
(アイク『大いなる秘密 下』p,517)

 自分を愛せなかった哀れなレプティリアンに代わって、自分を愛し、慈しみ、優しくなること、それが他者を愛し、優しくし、調和のとれた世界を築くことにつながる。

 これは、地球の多くの人々にとって、まだまだチャレンジングなことだと思う。

 黄金時代になって、目に見える生活を変えていくだけでなく、より調和のとれた存在になっていくこと。

 我々には、やるべきこと、やれることがまだまだたくさんある、のではないだろうか。







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