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情報=命令を拒絶することはできないのか?
佐々木中『切りとれ、あの祈る手を』(河出書房新社、2010)を再読しています。
思いつくままに、引用します。
突然出現したように見える人というのはひとつ共通の特徴がある。それは、「誰の手下にもならなかったし、誰も手下にしなかった」ということです。誰の命令も聞かない。無論、全く誰の話も聞かないということではありませんよ。ただ、話を聞くのも才能、聞かないのも才能ということです。高圧的な脅迫には屈しないという、誰だって身に覚えがある話でね。まだ初々しく詩壇に登場したばかりのヴァレリーが、師と仰ぎ見ていたマラルメに詩作の忠告を求めて手紙を書いたことがある。マラルメはどう返事をしたか。「唯一の真の忠告者、孤独の言うことを聞くように」と。美しい逸話ですね。私も言うことも聞くな、ということです。誰の「手下」にもなってはいけないし、「命令」なら誰のものだって聞いてはならない。
彼(引用者注:コンスタンディノス・カヴァフィス)が言うように「拒絶者は悔いぬ」「拒絶こそ正解」なのかもしれない。
自分だけが醒めていると思ったことはありません。実際、自分だけが醒めていると思っていること以上に凡庸で見悪(みにく)いことが他にあるでしょうか。
自らの選択とはいえ、情報を遮断し、情報の持ち合わせがないということは、いまの時代では愚かに見えるということと同じだからです。しかし、私は愚かさを選んだ。無知を。これはなかなかに担い難いことでした。
情報が無いということはどういうことでしょう。愚かに見える、ということよりも辛いことがある。自分が本当に正しいかどうかわからなくなる。一体こうしていて、これでいいのか、という問いに苛まれるということです。情報の言う通りに振る舞っていれば、この問いを避けることができる。だからひとは情報を集め、まず何よりも情報通になろうとするのです。しかも情報を見下すふりをするためにね。私は嫌でした。こういう態度や、こういう態度が可能にするものすべてを拒絶していました。
知、情報というものは、これほどまでに人を病み衰弱させるものなのか
ジル・ドゥルーズの力強い言葉がありますね。「堕落した情報があるのではなく、情報それ自体が堕落なのだ」と。ハイデガーも、「情報」とは「命令」という意味だと言っている。
皆、命令を聞き逃していないかという恐怖に突き動かされているのです。
情報を集めるということは、命令を集めるということです。いつもいつも気を張り詰めて、命令に耳を澄ましているということです。具体的な誰かの手下に、あるいはメディアの匿名性の下に隠れた誰でもない誰かの手下に嬉々として成り下がることです。素晴らしいですね。命令に従ってさえいれば、自分が正しいと思い込める訳ですから。自分は間違っていないと思い込める訳ですから。
「すべてについてすべてを」語ろうとする「批評家」と、「ひとつについてすべてを」語ろうとする、つまりあらかじめ誰かに指定されたマス目をひとつひとつ丁寧に塗りつぶそうとするような「専門家」は、結局どちらも、自らを「完璧な全体性」を持つ「屹立する万能者」として立てようとする。そしてその「すべて」をめぐる享楽に酔っている。彼らは敢えて言えば「全体主義的」な幻想にとらわれているに過ぎないのです。
そこで「命令など知らない」と言うことはできないのでしょうか。そんなことは知ったことではない、と言うことはできないのでしょうか。命令を拒絶することはもはや不可能になったのでしょうか、それが無知と愚かしさに、「下に」、「ひきずりおろしつづける」ものであるとしても。そのような情報という餌を貪りつづけるしかない家畜めいた有様に屈従し続ける他に、方途はないのでしょうか。高慢な卑屈さをもたらす、みずからを万能と思いなす酔態に陥り続ける以外には道はないのでしょうか。拒絶することはできないのか。たとえその拒絶が、リルケの「私は間違ってはいないのではないか」という叫びにも似た絶唱に通じる苦難の道であろうとも、その道を選ぶことは現在においては不可能になってしまったのでしょうか――不可能ではない、そうではありえない。それはなされうる。
情報を遮断する。すると、端的に何をしていいのかわからなくなる。どこにいくのかもわからない。命令を聞かないんだから何に従っていればいいのかわからない。かといって自分の命令というのは聞けない。
誰とも知らない他の誰かの情報に、すなわち命令に従っていれば楽なんです。何故なら、その命令は自分では変えられないから。
自分からの命令というのは自分で変えられる。所詮自分ですからね。すると当然はっきりとした目標に向かって真っ直ぐに進むということができなくなる。地図なしで異国の森をよろめきながら彷徨っているようなものです。どこに行くのかもわからず、ぴしりと足元で鳴る小枝の音を心細く聞き、不意に茂みからけたたましい声とともに飛び立つ鳥たちの羽ばたきに狼狽する――みっともないし心許ないし情けない。どころか苦しいわけです。
外部の基準が何もないということは、要するに他人から見ると何もしていないということになります。この時代に何もしないで茫然としているというのは、許されないことをしているのではないかという罪悪感にも似た何かに責められることになる。
それでもなお、そうしたのは何故か。それは本を読んだからです。何時の時代も、誰もがそうしてきたようにね。
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