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『モモ』に込められた意図
ミヒャエル・エンデの代表作『モモ』は、最も広く読まれながら、その意図を最も誤解され続けた作品である。
概要については、ここでまとめられているので、未読の方は、どうぞ。
よくまとまっています。
このnoteは、しろのさんが、取り上げていたことで知りました。
しろのさんの「灰色の男たち」の解釈は興味深いものです。
ただ、本記事では、『モモ』とそこに流れる主題に注力して、書いていきます。
『モモ』の主題は何か?
さて、多くの人は、この作品が時間のほんとうの意味、ゆとりの大切さを強く訴えていると考えている。
だが、エンデ本人はどうであったか。彼の言葉を聞いてみよう。
“じつは『モモ』の書評などでほめられても、ひどく外面的表面的な理解しか示されていないと思うことはあるのです。みなさんがほめるには、私が『モモ』を書いたのは、現代社会でだれもが忙しくて『時間』のもてない存在になったことに注意を喚起させるためだった。あるいは、人びとのストレス状態、世の中のあわただしさを警告するためだった、というのです。
けれども、いや、いや、ちょっとちがいます、とは言いたい。私としてはもう少しさきのところまで言っているつもりなのです” (子安美知子『エンデと語る』朝日新聞社)
簡潔に言えば、『モモ』に込められていたのは、お金への問題意識である。
ドイツの経済学者ヴェルナー・オンケンは、『モモ』の寓話の裏側に現代の経済システムに対するエンデの問題提起が描き込まれているのではないかと考え、それをエンデに書き送った最初の人物である。
そこから、二人の交流が始まる。
『モモ』に描き込まれていたのは、「時間とともに価値が減る」というシルビオ・ゲゼルの自由貨幣の理論と、哲学者・神秘家・教育者ルドルフ・シュタイナーの「老化するお金」というアイデアである。
そのことを明確に指摘してきたオンケンの手紙を受け取って、エンデはとても喜んで返事を書いたという。(参考『エンデの遺言 根源からお金を問うこと』講談社+α文庫)
松岡正剛の読み
以前、友人から、松岡正剛の千夜千冊にある『モモ』のページを教えてもらった。
松岡は、『エンデの遺言 根源からお金を問うこと』から始め、戯曲『遺産相続ゲーム』や小説『鏡のなかの鏡』を行き来し、『モモ』や遺作『ハーメルンの死の舞踏』を読んでいったようである。
前述したように『モモ』の主題は、時間ではない。
松岡の言葉を引こう。
“いったいこのお話は何を書いたのか。
失った時間を取り戻したという話ではない。「時間」を「幸福」と見立てたのでもなかった。エンデはあきらかに時間を「貨幣」と同義とみなしたのである。「時は金なり」の裏側にある意図をファンタジー物語にしてみせたのだ。” (松岡正剛千夜千冊1377夜『モモ』)
結局、『モモ』の主題はこれに尽きる。
それだけでなく、この主題は『モモ』だけでなく、『鏡の中の鏡』や戯曲『遺産相続ゲーム』、遺作『ハーメルンの死の舞踏』などにも一貫して取り上げられている。
『鏡の中の鏡』ではこんなセリフが出て来る。
"どうやらカテドラルの祭壇がお金を増殖させているらしい。案の定、祭壇についている説教師は大声で「真なるものも商品である!」「お金は万能である!」などと叫んでいる。"
シュタイナーとの対話によって育まれた視座
エンデは、批評家のような鋭い眼差しでもって、現代社会の一つの病を見通していた。
実際、彼が批評家の魂を持っていたことは、彼のインタビューを読むとはっきりわかる。
評論は正邪の是非を言い、批評は、対象の本質や可能性を明らかにすることだと、ある批評家から教わったが、こう捉えない人もいるかもしれない。
ともあれ、エンデの批評家的視座は、彼が座右に置き、繰り返し読んでいた、シュタイナーの著作との対話によって育まれたもののように感じる。
シュタイナーが亡くなったのは、1925年で、エンデは1929年生まれなので、当然、二人は会っていない。
だが、シュタイナーの主著を丁寧に読んできた人なら、エンデの作品のいくらか、特に『モモ』が非常にシュタイナー的であるのがわかるだろう。
ただ、エンデの作品は、シュタイナーの信者たち――人智学協会員――には受けが悪かったようで、あるインタビューでそんなことを、エンデは述べている。
”いつも繰り返し彼(シュタイナー)が嘆いていたことの一つは、なぜ彼らはいつも、私の言うことを、何もかも真似するのか、なぜ彼らは、自主的にその先に進んでくれないのか――間違える危険をおかして、ということでした。” (『ミヒャエル・エンデ ファンタジー神話と現代』「エンデ、人智学を語る」)
ドグマからとてつもなく遠かったシュタイナーは、近しい人間から、ドグマティックに受け取られてしまったのは皮肉というしかない。
この一節から、エンデは反対に、ドグマから自由になり、「私のシュタイナー」に出会っていたことがわかる。
この「エンデ、人智学を語る」の最後は、こう締めくくられる。
“間違いと失敗は、共に、人生で最も価値あることです。いつも前もって、すべてを正しく行おうとする者は、何事も正しく行えないでしょう。”
そんな彼は、シュタイナーの四大主著の中で、とりわけ『自由の哲学』を愛したという。
ミヒャエル・エンデ編(丘沢静也訳)『M・エンデが読んだ本』(岩波書店、1996)に、『自由の哲学』を入れていることからも、それは明らかだ。
垣間見える批評家エンデの姿
エンデが友人二人と1982年に行った会話が元となった本『オリーブの森で語りあう』でこんなことを言っている。
“エンデ 原子炉に賛成する立場とは、ごく簡単にいってしまえば、うしろに産業が、資本が、経営者がいるということだ。ひたすら経済的な利害関係が問題であって、またもやそれが裏口からはいりこんでくる。政党は、経済界の望む方向に、走らされる。明らかなことだ。いいかえるなら、ぼくはこの国の選挙民なのに、生命を左右しかねない重大問題にかんして、まったく発言できない。政治はぼくの頭越しで行われている。選挙民のぼくは、まったくなにひとつ口出しできない。たとえぼくと同意見の選挙民が過半数を占めているとしてもね。” (ミヒャエル・エンデ、エアハエルト・エプラー、ハンネ・テヒル『オリーブの森で語りあう』岩波書店、1984、p.149-150)
ここからも、お金あるいは貨幣経済というものが全てをコントロールしているという、エンデの問題意識がうかがえる。
「ぼくはこの国の選挙民なのに、生命を左右しかねない重大問題にかんして、まったく発言できない。政治はぼくの頭越しで行われている。」
これは、1982年当時のドイツだけでなく、まさに、今の民主主義国において、少なからずの人が感じていることではないだろうか。
新しいヒーローとしてのモモ
また、エンデは『モモ』で、新しいヒーロー像を打ち立てようとした。
剣や魔法で世界を救うのではないヒーローというものを求めていたのである。
それが、モモという形に結実した。
実際、モモは腕っぷしが強いわけではなく、何か超常的な能力を持っているわけでもない。
モモが秀でているのは、人の話を聞くことである。
しかし、モモは、灰色の男たちの企みを、知恵と機転をもって、切り抜けていく。
モモというキャラクター一つをとっても、エンデは新しい試みをしていることがわかる。
言葉は読まれることによって完成する
エンデの作品は、一般に思われているより、ずっとずっと射程の広いことを述べている。
そういう行間を読み、明らかにするのが批評家の仕事だと思うが、『モモ』が出た当時の批評家は、そういう眼識に欠けていた。
エンデは、読者の存在を信じていた。
言葉は読まれることによって完成する。
彼の作品には、いまだ発掘されざる意味が満ち満ちている。
なお、松岡正剛の記事の最後には、エンデの略歴についてまとめられているので、良かったら、お読みいただきたい。
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