小さい頃から見えない世界に触れるメリット
もし小さい頃から、見えない世界を受け入れていたら?
小さい頃から、見えない世界に触れることを推奨された人は、そうでない人に比べて、人生の困難をうまく乗り切れるのではないだろうか。
"自分は一人ではなく、ハイヤーセルフ、守護霊、守護天使、ご先祖様が常に一緒にいる。自分で注意する必要はあるけれど、危険から守ってくれ、周りの大人が答えられないことに答えてくれる。"
小学校入学前までの時点で、感覚的に、このような信頼を育てることを推奨され、見守られるならば、親は心配という重石・呪いを子供に向けることなく、子供の創造性や自主性を、適切に発達させる関わりができるのではないだろうか。
親が、そうした不可視の存在について教えるのでもいいのかもしれないが、そういう親の方が稀だろう。
むしろ、コミュニティの長老格の数名が、そういう知識を持っていて、親からの相談に乗るという形で情報を伝え、助言するのがいいのかもしれない。
もし誕生時から、そういう長老が関わってくれるならば、親子両方にとって、子育ての困難は減るように思われる。
例えば、親が答えられない質問をしてくる子供に対して、ごまかすことなく、応じるにはどうしたらいいかとか、その際に直面する、親自身の内面の葛藤との向き合い方を、ジャッジせずに教えてくれる人がいれば、親は親としての権威を防衛的に保つことなく、子供に関われるのではないか。
ケイシー、シュタイナー、ゲリー・ボーネルの場合
「眠れる予言者」の異名を持ち、アカシックリーディングで多くの人の相談に乗ったエドガー・ケイシーは、幼少時、妖精が見えたという。
彼によれば、その頃に見た聖母マリアか精霊から、自分の天命を知ったという。
それを、彼の母親は暖かく見守っていた、そんな話を聞いたことがある。
他方、ルドルフ・シュタイナーは、十代のどこかで、フェリックス・コグツキーという薬草商をする男性に出会うまでは、自身の内なる世界を誰にも言わずに、孤独に過ごしていた。
両親に言っても、まともに取り合ってもらえなかったと、伝記で読んだことがある。
シュタイナーはコグツキー経由で、すぐれた教師に出会えたが、サイキック能力やスピリチュアル能力をもった多くの人がそういう出会いに恵まれるわけではない。
ゲリー・ボーネルは、養父からの暴力をきっかけに、幽体離脱をして、霊的教師に出会えた。
だが、彼は家族内では全く理解者を得られず、信頼していた学校の先生に言うのでさえ、随分と時間がかかっている。
もしその時、家族でも学校の先生でも、周りにいる人が、ゲリー少年の経験を、真剣に受け止め、見守っていたら、彼の幼少期はもう少し、楽だったかもしれない。
シュタイナーやゲリーのケースは、多くの人と比較すると、幸運なのかもしれない。
多くの人の例
人の嘘が瞬時に見破れるとか、妖精・精霊・天使と会話できるとか、テレパシー的な感応能力といった、自分にとっては当たり前のことが、周囲の大人から気味悪がられたり、学校でいじめられる理由になって、辛い成長期を過ごす人の方が多いのではないか。
中には、そういう経験がきっかけになって、自分で自分の能力を封印してしまうケースもある。
この世に来る前に、この世にもたらそうとしてきたギフトを、自分で封印してしまうのは、辛いことだ。
幼少期に不可視の世界を受け入れるメリット
小学校入学前までに、感覚的に、不可視の存在との関わりや守護を受け入れて、徐々に、理論や概念を学ぶことで、スピリチュアルなインチキに引っかからなくなるだろう。
相手が真実を言っているのか、虚偽を言っているのかが瞬時にわかるから危険な人にはついていかなくなるだろう。
また、親が自分を真剣に思って叱っているのか、体面を気にして怒っているのかの区別もつくだろう。
さらに、この世的な能力や資質との調和を適切に育めば、将来何をしていくかといった可能性も大きく広がるように思う。
少なくとも、同じ思考をするような量産型インテリを作る今の教育システムは、全く人間を幸福にしないし、強い自己不信を植えつけるものでしかない。
支配者に都合のいい、洗脳された人間しか、できないし、他者や自然との調和的関係を築くのもむずかしい。
反対に、自分と共にいる存在を認め、受け入れるように推奨することは、自分が感じていることを、自分で信頼するのを勧めることともつながる。
自分の感じていることを正直に認めることが、自己信頼へとつながる。
とてつもない困難に見舞われても、健全な自己肯定感があり、自分の至らないところを受け入れる自己受容ができ、自分を信頼できるなら、不必要に不安や恐怖を抱くことなく、道を切り開いていける。
とはいえ、具体的に、学校やコミュニティを作るといったことを、今、思いついているのではない。
もし私が、そういうコミュニティで育ったとしたら?
もし私が最初に生まれたところに、そういうコミュニティがあって、不可視の存在を当たり前に受け入れている長老格の人がいたら、どうだっただろうかと、考えてみた。
少なくとも私は、親の過干渉から自分を守るために、誰にも理解できない内なる世界を作って防衛する必要はなかったとは言える。
また、そういう長老的存在と話をしながら、親の期待を適度にかわす術を身に着けつつ、自分の感覚を伸び伸びと開花させられたのではないだろうか。
必要なことは言うが、ジャッジしない大人に、安心感と、受け入れられている感覚を持てたことだろう。
おそらく、私のペースに合わせて、その時に、必要な形で、能力を伸ばす情報をくれたようにも思う。
親に暴力を振るわれても、自分を責めることなく、立ち向かうことができたかもしれない。
スピリチュアル系の本やファンタジー作品を読むことに、恥や疚しさを感じることもなかっただろう。
こういう場がたくさん必要になる時代が来るのかもしれない
実際に、学校やコミュニティを作るには、いろんな人の助けがいるのに加え、私自身が、自分の葛藤を完全に手放す必要があるし、いろいろ学ぶこともある。
見えない世界との関わり、自分を守護し、見守る存在がいることを知って、成長するのでは、それを知らないのと比べて、人生の歩み方は大きく異なるように思われる。
これから、こういう場がたくさん必要になるのではないだろうか。