全訳トム・ケニオン「Spirituality, Copyright and Piracy(靈性と著作権・海賊版)」
スピリチュアルと著作権・境界線
ハトホルのチャネラーであり、サウンドヒーラー、エリクソン催眠療法家のトム・ケニオンの記事の全訳をお届けします。
内容としては、ニューエイジ(ニューケイジ)批判であり、スピリチュアルなことと境界の尊重をどう折り合いをつけるかという話題です。このテーマは、ニューケイジに携わる人々だけでなく、しばしば起きていることではないかと思われます。
トムは、非常に冷静に思索を展開していますが、事を起こした人々に、最低限の道義心がなかったことを悲しく感じていたことは、翻訳している最中に感じました。
また、彼が、「やる時にはやる人だ」とわかったことが、個人的には敬意を覚えました。
「どんな考えがあってもいい」と言って、自分や自分の大事な人の権利侵害・境界侵害を受け入れてしまうスピ系の人もいて、そういう人たちに比べれば、トムの態度は、バランスの取れたものだと思われます。
トム・ケニオン
「Spirituality, Copyright and Piracy(靈性と著作権・海賊版)」
翻訳者:jacob_truth 翻訳完了日:2021/09/24(金)
原文:
背景
2010年7月、ある映像作家が、私の作曲した音楽を、私の許可や同意なしに、自分のビデオの背景として使用しました。このビデオはスピリチュアルな内容でした。それゆえ、著作権で保護された楽曲を使用されたことで、私は、「靈性と著作権の問題」について、自分自身の考えと向き合うことになりました。
私の立場
映像作家が純粋な気持ちで映像を制作したことは間違いありません。問題はそこではありません。問題は、彼女がYouTube®に投稿する前に、収録されている曲を使用してもいいかどうかを私に尋ねなかったことであり、彼女のメールリスト全体にこの曲をメールで送った人も同様です。私の音楽作品は、国際著作権で保護されている(録音されたほとんどの音楽作品がそうであるように)ので、この二人の行為はマナー違反であり、簡単に言えば違法行為であると考えています。
私がこの方にYouTube®からビデオを削除するようお願いした根本的な理由は、私が自分の音楽作品をいかなる目的であれ、誰かによって使用されることを許可していないという単純な事実でした。以上です。このケースでは、映像制作者が私の曲を盗んだだけでなく、作品の上に重ねて彼女の声で瞑想を読み上げたり、リバーブを追加してエンジニアリングを変更したりしていますが、これらは国際著作権法上、違法行為です。
皮肉なことに、私は自分の音楽にはかなり寛大で、私のウェブサイトの「サウンドギフト(リスニング)」というセクションで、私が制作した多くの楽曲を提供しています。これらは、「個人的な使用に限り」、好きなように聴くことができるように、無料で掲載されています。
私にとっての問題の一部は、哲学的なものだと思います。「ニューエイジ(New Age)」の世界では、「ワンネス」(=私たちは皆、一つ)という考えが広く浸透しています。私はこの考え方に賛同していますが、少なくとも、一つの注意点があります。この物質宇宙の二元性の世界では、境界も存在します。私の観察によると、ニューエイジの人々の中には、自分が「スピリットに動かされている」と思っているのに、境界線や説明責任といったものの必要性を理解していない人がいます。
私にとって、靈性(spirituality)は生物学に根ざしています。私たちの体を構成する細胞には、私たちが考えるべき固有の叡智が備わっています。それぞれの細胞は、他の細胞との間に境界線を持っています。細胞壁があり、小さな分子の出入り口があります。もし、私たちの体の細胞が突然、「自分たちは一つ(ALL ONE)」と決めたら、細胞壁を溶かして、あなたも私も突然、原形質のプールになってしまうでしょう。
私たちがそれぞれの違いを持つことができるのは、基本的には、体内の細胞分化によるものです。しかし、細胞は、その境界が守られているとはいえ、お互いに孤立しているわけではありません。細胞は複雑なコミュニケーションシステムを持っています。その中には、神経経路に関連するものもあれば、細胞から細胞へと流れる微細エネルギーに関連するものもあります。また、先に述べたように、細胞には分子の出入り口があり、栄養分や酸素(生命を与えるもの)が入ってきます。また、その出入り口からは、毒素や二酸化炭素(死をもたらすもの)が出ていきます。このように、細胞レベルでは、私たちの体を構成する約1兆個の細胞が、常に「イエス」と「ノー」の判断をしています。そして、この細胞の区別がつかなくなると、すぐに死が訪れます。
人間存在の奇妙なところは(私の視点では)、このような細胞の「はい」「いいえ」が全て行われている一方で、私たちが、このような生物学的現実の全てを超越した存在領域にも、同時に存在していることです。この「自己」の領域では、自分は存在しません。つまり、この世界の二元性を超越した、非局在的な私たちの別の部分があるということです。この領域は、場所を持たない「不可解な場所(inexplicable place)」であり、私たち全てが「一つ」であるかのように相互につながっています。
私たちの文明は今、岐路に立たされていると思います。重力の中で歩き方を発見する幼児のように、私たちは、二つの世界で生きる方法を見つけようとしています。一方の世界は、人と人との間の違いや境界の世界です。もう一つの世界は、私たち個人の人生の「マーヤー(Maya)」(幻想という意味)を超えた、相互につながっている世界です。
私は、相乗効果の力を信じています。そして、二元性や境界の現実(この世のマーヤー)と、私たちの相互のつながりの現実(靈界のマーヤー)を融合させると、強固な何かが起こります。幻想を意味する「マーヤー(Maya)」という言葉を、敢えて、両方のケースで使いました。
私たちが生きているこの二元性の世界は、本質的には素粒子の力の遊びによってもたらされる幻想であると、私は考えています。しかし、靈界もまた、光の戯れやライラ(lila)によってもたらされる幻想なのです。(私の考えでは)本当の現実とは、私たちは純粋意識であり、物質とエネルギーの両方であり、束縛されたものと束縛されていないものであり、個々人と相互につながっているものとして、自分自身を経験しているということです。
奇妙に聞こえるかもしれませんが、この哲学的な背景が、私が相談を受けたこともない、この「スピリチュアル・ビデオ」から、私の音楽を削除するのを要求した理由です。このシーンの真相は、映像作家がビデオの最後に私の名前をクレジットで入れたにもかかわらず、私に断りなく、私の作品を使用したことです。これはマナー違反であるだけでなく、違法行為でもありました。
そこで私は、哲学的な観点から、境界の必要性を尊重するか、あるいは、法的にも倫理的にも権利がないにもかかわらず、「靈的な意図」のために私の音楽を使用し続ける人を許すか、という選択を迫られました。私は「境界」を選びました。
私のこの行動によって、私たちのサンガ(靈的共同体)の中に、多くの「波紋が起こっている」ことを、私は知っています。また、映像作家と一緒に参加したことを知っている人によって、私の要求がサンガに伝えられたことも、付け加えておきます。つまり、YouTube®に違法に投稿されただけでなく、この人物は、自分のメーリングリスト全体にビデオを送信していたのです。
私たちが、彼女(映像作家)に送った私的なメールを読んだ人たちの中には、停止命令の直截的な表現に動揺した人もいました。このような強い表現は、一部の人を動揺させるかもしれませんが、法的な問題に対処する際には必要なことです。
彼女の行動で興味深かったことの一つは、ビデオを受け取った人たちにメールを送るようにという私たちの要求を、彼女がどのように受け入れたかということです。私たちは、音楽が無断で使用されたために、ビデオ作品から削除されたことを伝えてほしいとお願いしただけでした。その代わりに、彼女は自分のリスト全体に、私たちの非公開の停止命令を示すメールを送りました。それだけでなく、彼女は私たちの説明文を添付しませんでした。私は、私の音楽の無断公開が続くと、私たちにとって様々な厄介な問題が生じることを、彼女に理解してもらおうとしたのです。しかし、彼女は、メールのその部分を削除することを選択しました。その結果、彼女の読者のために、私たちが彼女に伝えた内容が、文脈を無視して掲載されることになったのです。これをした彼女の意図は何だったのでしょうか?
私は、彼女が違法行為に関与していることを世間に公表して、彼女の信用や評判に疑問を投げかけることなど考えもしませんでした。しかし、彼女の対応を見ていると、そのような意図があったように思えます。
このニューエイジ教師の行動は、私にとっては趣味が悪く、非常に疑わしいものでした。実際、この人は、私の人格を貶め、中傷することを目的としていたようです。
この人物の名前を公表することで、そのレベルにまで品位を落とすことを、私は断固拒絶します。彼女は、自分(映像作家)の正体を知っています。彼女のメールを受け取った人は、私が誰のことを言っているのかわかると思います。
悲しいことに、このビデオの制作者と私の評判を落とした人物が、このプロジェクトに私の音楽を使用してもいいかどうかを私に尋ねる道義心を持っていれば、このような事態は避けられたでしょう。
このニューエイジ教師の疑わしい行動はさておき、私はこの問題の根本的な哲学的問題に立ち返りたいと思います。
私が自分の音楽にまつわる法的な境界線を尊重することを選択することで、私たち全員が、分離と相互接続性のパラドックスについて、より深く考えるきっかけになればと、心から願っています。これは、全ての生命の相互のつながりを尊重する方法や、創作物を他人が使用する際に創作者が相談を受ける権利を尊重する方法を見つける上で、私たちの文化にとっての、継続的な問いかけになるのではないでしょうか。
トム・ケニオン
コメント
トムはリンクを貼っていませんが、「スピリチュアリティと境界線」というテーマに関連するトムの記事を貼っておきます。
以前の翻訳記事はこちらをご覧下さい。