いかに時間を使うか:Uさんtweetまとめ
「いかに時間を使うか」を巡る、Uさんのtweetまとめです。
美形ほど繁殖への欲求は少ないのかも
達観し過ぎていても、それはそれで・・・
外部や他者に依存しない人は、何に時間を使うべきか?
まず向き合うべきは、己の僻みっぽさかも
日本の国会は、お金や学歴があってもモテなかった男たちの養老院
※リアルに養老院で、二次元・三次元ゲームでもやっててくれ~(笑)
いい年した大人がすることではないこと
問題の本質は?
ジョン・レノンには孫がいない
コメント
・いかに時間を使うか。何を積み重ねて残していくか。
・問題の本質は、人々の意識、そして価値観にある
これは、最近、投稿した私の記事とも関連すること主題だと感じます。
執行草舟は『超葉隠論』で、自分が本を書いたり、話を一所懸命したりしているのは、「すべて未来の人たちへ向けてやっていること」なのだと述べている(執行草舟『超葉隠論』p224)。
これは、佐々木中が『切りとれ、あの祈る手を』で言及している多くの作家・哲学者・学者にも当てはまる。当然、佐々木もだ。
例えば、17世紀イングランドの成人男性の識字率は約30%。
16世紀末から17世紀初頭に活躍したイングランドの劇作家と言えば、シェークスピア、その後がミルトンやベン・ジョンソンだが、一体誰がそれを読んでいたのだろうか。
彼らは誰に向けて書いていたのだろうか。
「もっと「素敵」なのはロシア」だと、佐々木は指摘する(佐々木中『切りとれ、あの祈る手を』河出書房新社、2010、p,188)。
1850年、ロシア帝国の文盲率は90~95%。
"例えばあなたに友達が一〇人いて、その中で一人しか自分の書いたものが読めない。そういう状況です。" (佐々木、同書、p,188)
では、この1850年前後に、誰が何を出版していたかを見てみよう。
1863年 プーシキン『大尉の娘』
1842年 ゴーゴリ『死せる魂』
1846年 ドストエフスキー『貧しき人々』(デビュー作)
1852年 トルストイ『幼年時代』
ツルゲーネフ『猟人日記』
ロシア人の9割以上が読めない中で、この人たちは、ロシア語で文学をやっていた。
それは、なぜか。彼らは、どこを見ていたのか。何に価値を置いていたのか。
佐々木は、もし明日、日本人の文盲率が9割になっていたとしたら、日本の作家の9割以上は書くのをぴったりやめると思うと、述べている。
そして、こう続ける。
"では、ロシア文学が明治の昔から日本文学に与えた影響というものをどう考えるのか。そこから得た力によって日本文学がいかな高みに達したか。"(佐々木p,189)
現世における自分の幸福や名声や富を求めていたら、ドストエフスキーやトルストイたちは、決して書いていなかっただろう。
作家業はまったく割に合わないからだ。
彼らは、それらを超えたものを見ていたし、また読み書くことが、世界を変えることを本気で信じていたのだ。
本質が何かをきちんと見据えていた。
当時、自分の生きている世界で何が起きているかを調べるよりも、彼らは文学を書くことを選んだ。
今から当時の状況を振り返っても、相当、狂気の沙汰だが、そうでもしなければ、大業はなせない。
"本気にては大業はならず、気違ひになりて死に狂ひするまでなり。" (『葉隠』)
この境地で生きていた点では、先のロシアの作家たちもまた、武士道を生きていたと言っても、執行草舟は反対しないだろう。
"本を読み続けるというのは、革命を招き寄せ続けることを止めないということです。" (佐々木 p,186)
「いかに時間を使うか」を考える時、時の試練を生き残ってきた文学・哲学の作品を読むことは、大いに思索を刺激してくれるだけでなく、またとない同伴者となってくれる。
"取りて読め"