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なぜ私は文学に興味がないのか

10代半ばに読書の面白さを知る

 読書の面白さを知ったのは、中学卒業間際のことでした。

 インフルエンザに罹患し、都立高校の推薦入試がなくなって、家で寝ているしかない時、家族に買ってきてもらった、シュリーマン『古代への情熱』という自伝的作品を読んだのがきっかけです。

 高校に入ってから、本屋に行くのが日課になりました。

 ジェームズ・レッドフィールドの『聖なる予言』(角川書店)という冒険小説に目が留まり、ハマりました。

 まだスピリチュアルというのがそれほど一般的ではなかった時代です。

 同時期に、古橋秀之『ブラックロッド』(メディアワークス)という小説も知りました。

 これは、分野的には、SF+魔術になるのかと思います。

 『聖なる予言』と並んで、繰り返し読んだ作品の一つです。

純文学はそんなに読んでこなかった

 ただ、40数年の人生で振り返ってみると、文学作品は、そんなにたくさん、読んでいないことに気付かされます。

 とはいえ、身の周りには、文学を愛する人々が何人かいました。

 今は疎遠になった小学校の友人が、読書好きで、小学校の頃、「将来の夢は作家」と言っていました。

 典型的な文学少女でした。

 大人になってから彼女に会うと、バイトをしながら、小説を書き続けていました。

 今はどうしているのか知りませんが、彼女の目指している方向は、正直、私にはよくわかりませんでした。

 

 カトリックの批評家若松英輔さんの講演に足繁く通っていた頃(2012~2016)、彼が引用・言及・紹介する文学作品を何度か読みました。

 また、同時期に、作家・理論宗教学者の佐々木中さん経由で、古井由吉をはじめ、何人かの作家の本を読みました。

 ただ、それでも、お二人が熱く語るほどの興味を、私はそれらの作品に対して抱けませんでした。

 世の中には、尊敬する作家の全集を読破する方がおられますが、正直、気持ちがよくわかりません。

 これは、単純に向き・不向きもあるから、どちらが良いとか悪いとかではないと思いますが、気に入った作品、一~二編を、時々読めればいいというのが、私です。

 尊敬する著述家の執行草舟は、晩年の三島由紀夫に会い、また全集を読破したという方ですが、私は三島さんの作品では短編「憂国」が大好きで、あとはほとんど読んでいません。

 『仮面の告白』『音楽』『美しい星』ぐらいです。

 亡父から『金閣寺』と『豊穣の海 四部作』を読むように、生前、しきりに勧められ、手に取ってみましたが、早々に挫折しました。

 話が少しズレましたが、純文学には、ほとんど全く興味が持てないことが、若松・佐々木・執行の勧める作品・作家を読んで、改めてわかりました。

 なぜ彼らは、特定の作家について、あそこまで熱く語り、論じることができるのか、とても不思議な気持ちになったのを覚えています。

 友人に、国語の高校教師をしている人がいて、時々、文学の話になったことがあります。

 飲んでいても、私が話を聞いていることが多かったように思います。

 彼女の話を深められるほど、私は文学を読んでないので。

 文学、小説を愛好する人と話をすることはできますが、もしかすると、そういう人とは、恋愛はできないかなと、最近、思います。

 以前、付き合っていた女性は読書好きだったので、その点は良かったのですが、好きな作家は違っていたので、その方面の深い話ができなかったのは、ちょっと残念でした。

森鴎外についてのニュースを見て

 今朝、NHKで、今年没後100年を迎える、作家・森鴎外について取り上げているニュースを見ました。

 平野啓一郎と、名前を失念した女性作家が出ていました。

 平野氏は、鴎外の短編『最後の一句』という作品を取り上げ、時代風潮への違和感を持つことの大切さを説いていました。

 それ自体は異論はなかったのですが、それでも、鴎外のこの作品自体を読みたいとは全く思いませんでした。

 放送を見ながら、地球になじめない私とのあまりの隔たりを感じて、笑ってしまいました。

 そして、こんなことに気付きました。

 文学に私がほとんど興味がないのは、あまりに小さい世界のことに思えるのと、他人の創造物の中に入っている感が強いためなのだと思います。

 うまく伝わっているかわかりませんが、鴎外や文学のいい・悪いではありません。

 それらを言えるほど、読んでいませんし。

 どんなに他人から勧められても、興味を持てないのは、もっともっと広い世界をどこかで知っているためなのかもしれません。

私はファンタジーに惹かれる

 文学で私が惹かれるのは、ファンタジー作品です。

 エブリスタやブログにアップしているのも、ファンタジー色の強い作品です。

 ファンタジーに惹かれる理由は、純文学よりも、私の知っている「世界」に近い雰囲気があるためなのかもしれません。

 純文学は、あまりに隔絶・制限されていて、私は興味が持てないのです。 

 結局、「生きて死ぬ」という枠組みの中(しかも長くて100年未満)での、人の営みを描くというのが文学だと思いますが、それは一つの制限された物の見方に過ぎません。

 多くの人々の記憶からは抜けていますが、世界には数百歳生きた人の話がありますし、不老不死になった人の話もあります。

 巨人や妖精の話、宇宙人による地球人のDNA改変の話もあります。

 また、広い宇宙には、肉体を持っていない存在も多数おり、そういう人たちは、もし文学というものを作るとしても、地球人の大多数が抱いているのとは異なるものを描くでしょう。

 それは、地球の文学の基準からすれば、ファンタジーやSFにくくられる内容かもしれません。

 そもそも、文字を書くというのがまだるっこしくて、3次元の世界に残るものを表現したいという意欲さえ、持たないかもしれません(笑)

純文学は、肉体という衣服の話ではないのか?

 そもそも、我々人間にとって、人間という形は衣服に過ぎません。

 衣服の話なんて究極、どうでもいいと思います。

 「肉体は衣服であり、3次元世界を歩むスーツ」と感じている人からすると、「生きて死ぬ」ことに過剰にフォーカスしている文学の大半と、それに熱中する地球人が、ちょっと意味不明な生き物に見えます。

 こういうのを読むから、意識がより狭まるのに。

 一種の偏見であり、多分、大勢の同意は得られない観点かと思われます。

 ただ、自分が興味を持てないものについて、考えてみる機会を、今回、与えられたので、そのことには感謝しております。

 

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