ダイアナ妃の歩みその1:生い立ち・結婚・出産
ダイアナ妃について書こうと思った経緯
「JFK暗殺考その1」で述べたように、5/16の週、「ダイアナについて書こう」というインスピレーションが突然来たのが、彼女について書こうと思ったきっかけである。
また、その週の半ば頃から、テレビでは、ダイアナについての報道が行われるようになった。
これは、何かのサインと思われるが、今回は取り上げない。
そして、アイクの『大いなる秘密 下』第7章を読み始めた。
この章で、ダイアナについて集中的に述べているからである。
しかし、読んでみると、ダイアナについて書く前に、どうしても、JFKに触れざるを得なくなり、彼について、書くことにした。
それが、以前の三本の記事である。
今回、ようやく、ダイアナについての記事を投稿できて、嬉しく思っている。
これから、ダイアナの家系、結婚、「事故死」について述べていく。
引用は基本的に、デーヴィッド・アイク『大いなる秘密 下』から行う。
ダイアナの生家
ダイアナ・フランシス・スペンサー。彼女は1961年7月1日、ノーフォークの女王領サンドリンガムのパークハウスで、オスロープ子爵、のちの第八代スペンサー伯爵と最初の妻フランシス・ロッシュの三女として生れた。両親はダイアナが6歳の時に別居し、1969年に離婚した。母親は壁紙で財をなしたピーター・シャンド-キッドと再婚している。
ダイアナには弟チャールズ(現スペンサー伯爵)と二人の姉、ジェーンとセーラがいる。
”先にもう一人男の子が生まれたが、死んでしまっていたので、ダイアナは、両親は自分が男で跡取り息子であればよかったと思っている、と考えていた。”(アイク『大いなる秘密 下』p,346)
「子供時代の自分はとても不幸だった」と、ダイアナは語っており、「その短い生涯のなかで、子供時代に与えられなかった愛とぬくもりを、常に求めていた」(p,346)という。
サンドリンガムに住んでいたことから、ごく小さい頃からエリザベス女王のことは知っていて、王室の子供たちとも遊んでいた。チャールズが初めてダイアナを見たときは、まだ乳母車に乗っていたという。
だが、それは、愛情からではなかった。
ダイアナの記憶によると、「休みのたびに毎年女王の屋敷にやられ、『チキ・チキ・バン・バン』という映画ばかり観せられた」という(p,346)。
この映画が選ばれたのは、興味深いことだと、アイクは言う。
なぜなら、「原作のイアン・フレミングが情報部員であり、アレイスター・クロウリーの友人で、ジェームズ・ボンド小説の作者だから」(p,346)である。
クロウリーは有名な悪魔主義者・黒魔術師である。
この映画には、子供が大嫌いな王と女王が出てくる。
二人に雇われた「子供さらい」が子供たちを誘い出し、誘拐して、檻に放り込む。捕まった子供たちは城へ連れて行かれ、地下牢に監禁される・・・このようにお話は展開する。
「これは実際に行われていることを象徴したものであり、ウィンザー家がこれを何度もダイアナに観せたというのは、絶対に偶然とは思えない」(p,346-347)と、アイクは述べている。
ダイアナがこの時点で、サンドリンガムのウィンザー家の「空気」を感じとっていたことは確かだろう。
おそらく、この映画を見せることは、予測プログラミングの一種だったろうと思われる。
十三歳のとき、ダイアナは、ノーフォークからノーサンプトンシャーのオルソープへ移り住む。
そこは、スペンサー家の先祖代々の地で、父親がスペンサー伯爵の称号を継承したための移住だった。
スペンサー家はエリートの血を引く家系
・スペンサー-チャーチル家とは血縁
・オックスフォードシャーにあるブレナム・パレス(ウィンストン・チャーチルの誕生地)のマールボロ家と血縁
・祖先に、マールボロ公爵サー・ロバート・ウォルポールがいる
・スペンサー家は、マールボロ公爵夫人セーラから莫大な遺産を継承している
・チャッツワースハウスのデヴォンシャー公爵家であるキャヴェンディッシュとも姻戚関係がある。その分家は、スペンサー=キャヴェンディッシュ家と呼ばれている
・ダイアナとチャールズの共通の祖先:第三代デヴォンシャー公爵と、国王ジェームズ一世
・ジェームズ一世は、イングランドとスコットランドを治めたスチュアート王朝最初の王。フランシス・ベーコンの後ろ楯。ジェームズ国王の果たした役割は、ブラザーフッドの拡大、米国を支配するヴァージニア会社の設立、そして誤訳の多いと言われる『欽定英訳聖書』の完成
・ダイアナは、スチュアート王朝のチャールズ二世とジェームズ二世(ジェームズ一世と同様)から、フランスのメロヴィング王朝の血筋まで、いくつもの血統を受け継いでいる
・エリート家系に関する限り、スペンサー家は重要な血統であり、ダイアナは、ルーカン伯爵も含めた、数え切れないほどの貴族の血統とつながっている
・スペンサー家の血縁はアメリカの有力家系の多くにまで広がっていて、遠くはあるがロックフェラー家ともつながっている
・スペンサー家は長く国王に仕えた歴史がある。その伝統はダイアナの父親にも受け継がれ、国王ジョージ六世(現皇太后エリザベス・アンジェラ・マーガレット・ボーズ=ライアンと結婚)とエリザベス女王の侍従を務めた
・ダイアナの姉ジェーンが結婚したサー・ロバート・フェローズは、ダイアナが死んだときの女王秘書官だった
・ダイアナの二人の祖母、スペンサー伯爵夫人とレディ・ファーモイ、四人の大伯叔母は皇太后の宮廷の中枢メンバーだった
・スペンサー家と皇太后はごく近い関係で、ダイアナを動かしてチャールズと結婚させたのもレディ・ファーモイと皇太后だった(以上の記述は『大いなる秘密 下』p,347-348を参照)
・ダイアナの母フランセス・ルース・バーク・ロシェはロスチャイルド家の出身。フランセス・シャンド・キッドという名の方がよく知られている。「ヴァニティ・フェア誌の元編集者ティナ・ブラウンは、著書The Diana Chronicles『ダイアナ クロニクル――伝説のプリンセス最後の真実』で、ダイアナの父親は、億万長者の実業家でロスチャイルド家の親類であるジェームズ・ゴールドスミスだった可能性が強いことを明らかにしている。ブラウンによれば、ダイアナの母親は、1960年代後半にはずっとゴールドスミスと恋愛関係にあったという。たしかに、ダイアナとゴールドスミス家の人々はよく似ている。とすれば、ダイアナの息子であるウィリアム王子は、母親と祖母、そして「祖父」のジェームズ・ゴールドスミスと、父母両方からロスチャイルドの血を引いていることになる。」(『ハイジャックされた地球を99%の人は知らない 上』p,240)
つまり、家系としては、ダイアナは、ロスチャイルド家・ロックフェラー家とも血縁の、超エリート家系の人間ということになる。
だから、ケネディ家同様、スペンサー家も、レプティリアンの血族ということになる。
ウィンザー家がダイアナに望んだこと――ダイアナの悪夢の始まり
ダイアナがどのようにチャールズとの結婚にいたったのか、ここにもブラザーフッドの策謀が見え隠れするので、紹介しよう。
1977年当時、チャールズは、ダイアナの姉セーラと関係を持っていた。
この時、ダイアナは16歳で、ウィンザー家が彼女のために本当に動き出すのは三年後となる。
“皇太后とレディ・ファーモイが陰で操作して、ダイアナはチャールズの三十歳の誕生日を祝うダンスパーティーのため、バッキンガム宮殿へと招待された。”(『大いなる秘密 下』p,349)
その後1980年7月に、「チャールズの友人であるフィリップ・ド・パスが、皇太子のいるときに来てくれるように」(p,349)、ダイアナに頼んできたのだった。
チャールズに招待されたダイアナが、バッキンガム宮殿に行ってみると、ウィンザー家から、9月にスコットランドの居城バルモラル城で過ごすように招待された。
“最後にチャールズは結婚を申し込み、ダイアナはこれを受け入れる。”(p,349)
この時、ダイアナが「あなたをとても愛しています」と言うと、チャールズは「愛がいかなるものであろうとも」と返答した。
この表現は、「ウィンザー家とその子供の育て方を雄弁に語るセリフだ」と、アイクは指摘する。
なぜなら、彼らは愛を理解しておらず、与えることも受け取ることもごくわずかだからだ。
“想像してほしい。幼い子供が、ほかの全員と一緒に整列しなければ、海外訪問から帰ってきた母親の手を握れないのだ。そのように、女王とフィリップはチャールズを扱ったのだ。”(p,349)
ダイアナが保母をしていたとき、チャールズとの関係がマスコミに漏れ、自分の生活が衆目に触れることになって、常にスポットライトが当たるようになった。
ウィンザー家との悪夢は、このときから、始まった。
ダイアナとの結婚前、チャールズは、愛人カミラ・パーカー-バウルズと関係があり、ダイアナは結婚前から、それをわかっていた。しかも、チャールズと愛人の関係は、ダイアナとの結婚後も続いた。(p,349)
ちなみに、カミラは、ウィンザー家と同様、ロスチャイルド家と近く、ダイアナの死の一周忌には、イオニア海のコルフ島で、ジェイコブ・ロスチャイルドの歓待を受けている。(p,349)
ウィンザー家がダイアナに望んだことは、スペンサー家の遺伝子を持った跡継ぎを産むことだった。
つまり、スペンサー家の「孵卵器」としてしか、彼女の価値はなかったのだ。
そして、チャールズとの婚約から一週間後、ダイアナの拒食症が始まった。彼女は、一日に三、四回も吐き、ひどく痩せていった。(p,349。この理由や背景については後述する)
「ダイアナによれば、拒食症の「引き金」は、チャールズが腰に手を回して言った、「おや、ここ、少しぽっちゃりしてないかな?」という言葉だった。」という。(p,349)
ダイアナは、チャールズの態度について、次のように述べている。
“(チャールズは)手つかずの生贄の子羊を見つけたわけで、ある意味では私に夢中だった。でも、熱くなったと思ったら、すぐに冷たくなり、いつもそれの繰り返しだった。次にどう気分が変わるのかまったくわからず、いつも上がったり下がったりを激しく繰り返していた。……部屋にいてもチャールズは母親を畏れ、父親に怯え、私はいつも二の次の存在だった。”(p,350-351)
いみじくもダイアナは、無自覚だっただろうが、自身が「生贄の子羊」だと言い当てている。
また、このチャールズについての評価について、チャールズを非難するのは容易いし、私も彼を擁護するつもりはない。
だが、彼は、その親――エリザベス女王とフィリップ――から愛を与えられずに成長してきたのであり、もっと言えば、愛が何かも知らずに育ってきたので、実際に、人を愛する段になっても、どうすればいいのか、本当にわからなかったのにちがいない。
パートナーが二の次になるほど、彼は、両親を恐れていた。
彼もまた、マインドコントロールの被害者であり、虐待を受けて育ったことが、ここからわかる。
もちろん、こうした事情は、ダイアナには全く何の慰めにもならなかったが。
ダイアナは二人の姉に会い、結婚生活に耐えられそうにない、特に(チャールズの愛人の)カミラがいるときには、と訴えたが、もう選択の余地はないと言われた。
「あなたの顔がふきん(ティータオル)にまで印刷されてるのよ。もう逃げ出すわけにはいかないのよ」と(p,349)、姉たちは言った。
ダイアナがチャールズと結婚した当時、一体、誰が、彼女が退路を断たれた中で、結婚へと押し込められていったと想像しただろう。
だが、これは、彼女の悪夢の始まりに過ぎない。
ダイアナのチャールズとの結婚、王子の出産
ダイアナとチャールズは、1981年7月29日に、セント・ポール大聖堂で結婚した。
その後、拒食症は悪化し、自分の不幸の大きさを思うと、自殺を考えるほどだった。
1982年、ダイアナは王族の公務の一環として、モナコのグレース公妃(元女優グレース・ケリー)の葬儀に、女王の代理として出席した。
“グレース公妃もブラザーフッドの犠牲者の一人で、車のブレーキに細工をされて殺されていたのだった。”(p,351-352)
ところで、ウィンザー家は、占星術と秘儀術にいたく執着していたらしい。
ダイアナがウィリアム王子を身ごもったときに、それははっきり表れている。
“ある日、ダイアナは、出産をチャールズのポロの試合スケジュールに合わせるように命令された。そして、ダイアナには、ある薬品が投与され始めたのである。ブロンドで青い目のウィリアムが生まれたのは一九八二年の六月二十一日、すなわち夏至の日だった。”(p,352)
一見、「自分のポロの予定に合わせるためだけに、妻に不要不急で有害な薬を飲ませて息子を産ませた」ように見える話だが、もっと、根本的な理由がある。
それが、占星術と秘儀術である。
“悪魔教と秘儀の神秘と太陽信仰とに大きく傾斜している一族が、跡継ぎの出産を、太陽の力が頂点に達する夏至の日に合わせて調整したのだ。”(p,353)
そんなの偶然だよ、という声が聞こえてきそうだが、そうではない。
では、もしそうなら、どうして生まれた子の洗礼名が、「ウィリアム・アーサー・フィリップ・ルイス」なのだろうか。
これは、「黒い貴族のウィリアム征服王と太陽神のシンボルであるアーサー王、さらにはエディンバラ公とルイス・マウントバッテンにちなんだ名」なのである(p,353)。
占星術を使って、出産日をコントロールし、子供に、わざわざ、ブラザーフッドの血流ゆかりの名をつけるのだから、偶然であるはずがない。
その後、1984年9月にハリー(ヘンリー)王子が生まれて、ウィンザー家にとってのダイアナの存在価値はなくなった。
それから、1992年に、ダイアナとチャールズは別居し、1996年8月28日に離婚し、そのほぼ一年後に、ダイアナは亡くなった。