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堅固で誠実な性格をつくり上げる根底をなしているもの
ゴッホの無私の営み
"愛する妻を持ち、九人の子供の父親となり、彼等の為に梨の木を接ぎ、彼等の為に自分の身を使い果す、ゴッホがどんなにそういうものを望んでいたか、僕はそれを疑う事が出来ない。(中略)彼が牧師になりたかったのは、説教がしたかったからではない、ただ他人の為に取るに足らぬわが身を使い果したかったからだ。彼は、ジインと一緒に、最も求める処の少い貧しい家庭生活を営みたいと希ったのであって、自分を英雄だなぞと夢にも思った事はない。"(小林秀雄『小林秀雄全作品20 ゴッホの手紙』新潮社p.50)
これがゴッホの悲願である。悲願とは願っても願っても実現しないが、それでも願わずにはいられない願いのことだ。
ゴッホの試みはことごとく失敗する。
だから彼は絵を描き続けたのではなかったか。
彼は、祈るように描いたのではない。
描くことが祈りだった。
小林は「批評とは無私にいたる道である」と書いている。
彼にとっては書くことが祈りだった。
小林秀雄はハートで読め
「小林秀雄はむずかしい」と聞いたことがある。
頭で読む人にはそうかもしれない。
小林の文章には理知で全てを掌握しようという態度を、どこか峻拒するようなところがある。
『ゴッホの手紙』は、心あるいはハートで読むものだ。
それは、彼の他の作品にも当てはまる。
この作品は、ゴッホに絵を描かせた働きを明らかにしようという営みであると共に、色というゴッホのコトバに、沈黙して聞き入ろうという無私の営みである。
沈黙は極まり、後に行くほど、小林による「ゴッホの手紙」の翻訳となっていく。
敬虔なペシミズム
最初に引用した文章について、批評家の越知保夫は、「私が最も愛着をおぼえているものの一つである」と、秀逸な「小林秀雄論」で記している(越知保夫著、若松英輔編『新版 小林秀雄 越知保夫全作品』慶応義塾大学出版会、2016、p,15)。
そして、この引用に潜むのは「敬虔なペシミズム」であり、「バッハやミレーのような堅固で誠実な性格をつくり上げる根底をなしているものである」と書いて、こう続けている。
“それは人生の謎を解こうとせず、その前に頭を垂れる人のペシミズム、人生に深くなずまず、人生を通りすぎて行く地上の旅人(ホモヴィアトール)の心に通うペシミズムである。” (越知、同書、p,16)
さらに、越知はこの敬虔なペシミズムこそ、「聖者をつくる地金」であり、ゴッホの中に潜んでいたのが聖者への飢渇であったと指摘する。
“聖者が生い育ってくる土壌である民衆のペシミズム、黙々と他人のために一生働きつづけている人々の一人一人の心の奥ふかく秘められたペシミズムでもあったのである。” (越知、同書、p,16)
謎を解かないことも大事かもしれない
昨年は、広範にわたる社会や世界の嘘や欺瞞・不正・陰謀に気づき、自分の知識の修正をする日々を過ごした。
それでも、そういうこととは別に、人生には常に、「なぜこんなことが」ということが起こる。
それについては、もっともらしい説明がつくこともあるかもしれない。
時を経る中で、その謎や矛盾に秘められた意味がわかるようにもなってくることがある。
だから、問うことそれ自体は意味のあることだ。
それでも、時々、小林秀雄や越知の文章を読んで思うのだ。
謎の解明とはそんなに重要なことだろうか、と。
時に、謎を解こうとしないことが、最もむずかしい営みである境地があるのかもしれない。
“信仰は謎の解決ではない。解決を求める心の抛棄である。キリストが十字架上に死んだ以上、汝も謎を解くことを求めてはならぬ。謎に手を触れようとしてはならぬ。己れを捨てねばならぬ。キリストが死んだ以上はこの世の闇は何かの間違いといったものではない。それは動かしがたいものなのだ。十字架の上にはこの世の一切の謎、一切の闇が集中され、深められ、完成されているのである。”(越知保夫、同書、p,40)
567で慌てふためくクリスチャンたちを見ていると、クリスチャンでさえ、この境地を持っている人が、存外少なかったことに気づかされる。
声の大きなことを言うが、その実、できていない者のありようなど、常にそんなものだ。
引用は、自分が見るべきものが何かをわかり、そこから決して目を逸らしていない人の言葉である。
キリスト者として、あるいは、人間として肚が据わっていれば、どうして日々の、益体もないニュースに右往左往することがあるだろうか。
そんなことより、自分の人生、隣人の人生の方が重要ではないか。
結局、動かし難いものをつかんでいなかったから、それを反映した外側に翻弄されたという、ただそれだけのことだったのではないか。
逆に、言語化できていようといまいと、自分が何を大事にするのか、何を重んじているのかをつかんでいる人たちは、昨年も今も全く動じず、日々の営みをしている。
大事なものをつかみ、見るべきものを見ているから、自分の決断と行動で、自分がどう思われようと、気にせず、臆せず、日々を歩める。
ただ、それだけのことである。
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