![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/168457099/rectangle_large_type_2_8f9fca841cef9d3e812e44683b82bd18.png?width=1200)
【読書感想文】ケアの倫理
ケアの倫理?
とは何ぞや。
わからないままに手に取った新書。
1年ほどまえから両親の介護が急に発生し、そのなかで「家族という単位で世話を任されるのはどうなんだ」と、「家族」とその他の社会、「政治」の関係について考えたいと思っていたところで、目に留まった。
内容はフェミニズムの歴史を追っていくようで、知識のない私にはちょっと難しいところもあった。
でも、受け取れるポイントがたくさんあって、そのなかの2つに絞って記録したい。だからこの文章は書評ではなく、私にひっかかったポイントを拾った「感想文」でしかない。
Point1.「民主主義」は家父長制でできている?
「民主主義」の成員はデフォルトで成人男性である。女性に参政権が与えられたのは、1893年のニュージーランドから。日本は1945年。意外なほど最近である。
そういえばコテンラジオでも言ってたよね、ギリシャの民主政はその時代としては驚くべきものだったけど、そこには女性と奴隷は入っていない。女性と奴隷は、まさにケアを担う人材である。
https://open.spotify.com/episode/2nElkE6gAIzITmG5UDR6bc
ケアを必要とする者(子どもなど)と、ケアを施す者(女性など)は、「主体」ではなかった。人は誰もケアなしでは生まれたあと生き延びることはできないし、生きている限りいつケアが必要になるか分からない。つまりケアは人間にとって必須の活動なのに、それは「家庭」という私的な領域に納められ、公的な政治からは無視されていた。
民主主義&資本主義社会で政治に参加できるのは「(経済的に生産性のある)自立した個人」であって、それは一見平等なのだけれど、身体的に誰かに依存せざるをえない者(子どもや障がい者、老人など)は除外され、さらにその者をケアしなければならないゆえに経済的に依存する者(主婦など)も除外されがちになってしまう。
政治は「個人」ではなく「家族」を一単位としてきた。子育てとか老人の世話は女性が「動物的な本能によって」あるいは「崇高な母性本能によって」行う私的な、個人的な活動であるとすることで、成り立ってきた。
ニュースで「扶養家族」をめぐる政策論争がされているのを見てて、家族単位で考えることはデフォルトなんだなあ、家父長制強し!と苦々しく思ってしまうのも、あながちおかしな感覚ではないんじゃない?と思う。
Point2. 家族の定義を考えなおしてみる。
マーサ・ファインマンは、「性的な結びつきにすぎない」婚姻を「家族」という優遇制度の単位とすることに意義を唱えている。
ファインマンは問うのだ。もし、家族がケア関係を営む拠り所であるならば、なぜ、ケアする/される者たちを中心とした家族制度を構築することを目指さないのだろうか。あたかも、自立した、稼得能力のある健常者からのみなると考える個人主義的な資本主義社会では、『国家が社会的弱者たる成員のケアや保護、そして未来の市民を生み、育て、教育するという仕事を家族に頼り、割り当てている」。しかし、家族でケアを引き受ける者たちは、そのケア役割のために、誰かに、そしてなにかに自身も頼らなくてはならない、すなわち二次的な依存に陥ってしまう。
これには「まさに!」と目からウロコだった。
私としては、ケアを家族に任せずに社会化する方向が理想だと考えているけれど、家族で行うならば、「家族」の定義を考え直すべきだ。
ちょっと余談だけど、さいきん見たチリの民主化運動のドキュメンタリー『私の想う国』で、女性たちが集会でこんな詩を歌っていて、
私たちを裁く家父長制
生まれたとたんに裁き 罰を与える
「ここで家父長制?」とふしぎに思ったのだけど、婚外子の比率が高く、貧困家庭の6割が母子家庭、という状況ではまさにベースとする家父長制にNO!になるんだなと合点した。
コロナ休校はつらかった…
本の最後で、コロナ禍における女性の影響について書かれていた。
上記の男女共同参画局の研究によると、コロナ禍では小学生以下の末子をもつ女性労働者の就業率は。子どものいない女性労働者の就業率に比べて大幅に低下しており、なかでも保育園などに通えていたであろう未就学児よりも、小学生を抱える女性たちのほうが仕事を多く失っているという。
あの早い時点で全国一斉に休校になったのは、政治にケアの軽視があったからではないか?
私は在宅で働き続けることができたけれども、あのときはしんどかった。一人で勉強できる年ごろではない子どもを叱咤激励しながら丸投げされた一日分の学習を進め、三食その他世話をして、隙をみながら+夜間に自分の仕事をして。それでも小学生1人だったからましだったのはわかっている。赤ちゃんもいた家庭とか、夫、その他家族、みんなストレスを抱えて家にいる状態を考えたら本当に、本当にたいへんだっただろう。
個人的なことは政治的なこと。
うまくまとめることができないが、誰がケアをになうのか?を直視しないといけない、ということは明らか。
「個人的なことは政治的なこと」というのは1970年代のフェミニズムの標語だけれど、まさに私たちが「個人的なことだから…」と黙ってしまうことこそ、実は重要なことだし、政治的決定のなかで直視すべきことなんだと、あらためていい言葉だな~と思いました。