"アジアは一つ"岡倉天心のメッセージ~タイ起業10年記⑤
自分が起業する際に大いに影響を受けたのが、明治の思想家・岡倉天心だ。
社会科の教科書にも出てくる明治の偉人だが、彼は当時、日本有数のグローバル人材として世界で活躍した稀有な人物だった。天心の代表作『茶の本』に感銘を受けた私は、「アジアで自分は何をなすべきか」を考えるにあたり何度も彼の著作を読み込んだ。
前回書いたように、「欧米のモノマネに陥らず、アジア人としての矜持を持つこと」の大切さを100年以上前に説いていた人物、それが岡倉天心である。
1863年に横浜で生まれた天心は、貿易商の父の影響で幼少期から英語を学ぶ機会を得た。英語を習得したことでアメリカ人美術史家・フェノロサの弟子となり、その後、日本美術の研究家として名を挙げていく。後年には、ボストン美術館で日本美術を英語で講義するなど、日本文化を世界に発信することができた数少ない人物だ。
彼は、アメリカを訪れる時も必ず「和服」を着て街を歩いていたという。ストリートでアメリカ人にバカにされても、流暢な英語でやり返したという痛快なエピソードも残されている。
自分の弟子にも和服を着て歩くように進めていた天心だが、一方で「破調の語学で和服を着て歩くことは、甚だ賛成しがたい」と、英語力を身に着けずに和服を着るな、と厳しく部下に言っていた。
まさに「和魂洋才」の姿だと思う。
日本人としての魂を失わず、それでもアメリカ人と渡り合える能力を身に着けるべし。国際人としてのあるべき姿を彼は示していたと私は思っている。
彼の著作はすべて英語で、しかも格調高い英語で書かれている。そうした卓越したコミュニケーション力で、西洋世界に向けて意見を表明していたのだ。
そんなことが出来る日本人が、100年後の今どれくらいいるだろうか。自分も国際人として、彼のように世界で勝負していきたいとイメージを膨らませた。
さらに岡倉天心は、東洋世界と西洋世界の関係性を大いに案じていた人物だった。当時、欧米列強がアジア諸国に侵略していたことに対して、こんな言葉を残している。
「東西両半球が互いの良きところを汲み取る」こと。
対立があるところに「調和を生み出す」こと。
ここに自分が目指したいリーダーの姿が凝縮されている。
東洋と西洋も双方に学び合いながら、日本は日本らしい経営を、タイはタイらしい経営をすれば良い。
とかくビジネスの世界では、欧米の手法をそのまま取り入れがちな傾向がみられる。日本はそれで失敗してきた歴史があるし、タイも欧米留学組がMBAの知識をそのまま取り入れて経営している風潮があった。
そうした自国文化を無視したコピー経営に警鐘を鳴らし、「アジアらしい経営」をしていくことを支援していきたい、そんな思いで"Asian Identity"という社名をつけたのだった。
スローガンは 天心の"Asia is One"(アジアは一つ)という言葉を借りた。
アジアの時代が訪れる中で、アジアに多様性あふれる強い組織を作っていきたいという思いを込めた。
天心のビジョンは、その後日本軍の「大東亜共栄圏」のメッセージに利用されて、社会を良い方向に向かわせなかった。さぞかし無念だったのではないだろうか。
しかし、100年以上の時を経ても彼のメッセージは響くものがある。そうした過去の偉人のメッセージを受け継いでいこうと決め、会社の理念体系を作っていった。
(つづく)