【百寿コンシェルジュ・神崎眞のエピソードファイル】父返る(1)

響介は、父の告別式の後、火葬場の煙突から立ち上る絹の白糸が、天空に戯れる桃色子羊たちに溶けていくのを眺めながら、8年以上におよんだ父の療養期間の記憶をたどっていた。長かったような気もするし、アッという間の出来事だったような気もする。

認知症の発症、数々の異様な行動、警察やご近所にかけた迷惑、病医院や施設とのトラブル、湯河原への転居……。

この間、介護疲れで母は二度、救急車で運ばれ、後に脳梗塞を発症することに。それを受けて、父が施設に入ってからの3年間、響介は妻子との別居生活を余儀なくされ、実家で母を見守りながら仕事に出る日々が続いていた。

家じゅうが疲弊し、おカネは湯水のように流れ出ていった。医療や介護に係る諸々の手続きは複雑で、かつ、使い勝手は決していいものでないことを改めて痛感した。ましてや、両親の代わりに病医院や自治体に出向いてやりとりをしようとすると、個人情報がどうたらこうたらと言われて、なかなかどうして面倒くさい。実の息子であっても、だ。

あの時、百寿コンシェルジュの神崎なる人物と出会っていなかったら…と考えるとゾッとする思いである。

いろいろあったよなぁ。

ふぅ~っと、ひとつ、大きく息を吐きながら、老老地獄の一歩手前までいった両親に思いを馳せる。それは、出張中の響介のもとにかかってきた、一本の電話から幕を開けた。


8年前の6月、出張先の仙台で商談していたとき、響介の携帯が鳴った。老親ふたりが暮らしていた、東京郊外の救命救急センターからだった。 

母が倒れた・・・。 

必死に冷静を装いながら会話する。相手は看護師らしい。救急車で運ばれたものの検査の結果、異常は認められなかった。従って早々にお引取りを・・・というのが相手の言い分のようだ。とにかく母を電話口に出してくれるよう頼むと、しばらくして、母の生気のない弱々しい声が聞こえた。あの気丈な母からは想像もつかなかった。

検査結果どうこうではなく、頭がくらくらして立ち上がることができない。このまま家に戻されても、認知症の父とふたりでは休むこともできないし、別の意味で大変だ。だから、しばらくベッドで休ませて欲しい。これが母の言い分だった。

当の父も傍にいるようだが、役には立たないだろう。前年の秋くらいから、父には認知症の兆候が現れていた。後でわかったのだが、倒れた母を目の前にして119番すらもダイヤルできなかった。その代わりに外に飛び出して近所の家に何かを訴えて廻ったようだ。運よく隣の家の旦那さんが察知してくれて、救急車を呼んでくれたのだ。

再び、看護師とのやりとり。

母の所持品のなかに手帳が見つかり、そこに私の名刺と携帯番号が書かれたメモがあったという。看護師は、だれが何時に母を引き取りに来るのか、その答えだけを求めてきた。

響介は思った。

そりゃあ、忙しいのはわかるよ。でも、少女たちがあこがれる白衣の天使としては、あまりにも一方的で杓子定規じゃない?

そんなことを考えながら、響介が仙台にいることを伝えると、奥さんは?ときた。妻も仕事を持っており、飛んでいくことは困難だろう。が、実際問題として妻に動いてもらうしかなさそうだし、こんな薄情な看護師のいる場所に母を置いておくことは逆に危険というものだ。患者を人と思っていない。この看護師にとって、母は救急用ベッドを占拠している単なるモノ。それも邪魔モノのようだった。

3時間後、妻が引き取る形で母と父は家に戻った。翌日以降、安心のできる医療機関で母を診てもらうために、カルテと検査データを提供してもらう段取りを妻に予め伝えておいたのだが…。なかなか母のカルテの写しや検査データを手にすることができなかった。妻の話も要領を得ないのだが、「なぜ必要なのか」とか「本人の意思なのか」とか、四の五の言われたらしい。妻も短気なほうなので、業を煮やして踵を返してきたようだった。

仕方ない。自分で動くしかないよな・・・。

当時の響介は、仕事柄、月の半分は出張で東京を離れており、超の字がつくほどの多忙を極めていた。が、しかし、自分の親のことである。対処しないわけにもいくまい。

突然ふってわいた『まさか』に覚悟を決めた響介だったが、予想をはるかに凌ぐ壮絶な世界が待ち構えていることを知る由もなかった・・・。


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