【百寿コンシェルジュ・神崎眞のエピソードファイル】哀しみの終わる時(3)
どれほどの時間が経過したのだろう。ふたりが向き合うテーブルには、神崎が差し出したティッシュボックスのかなりの分量が、ゴミの花となって咲いていた。
「いやあ、神崎さん、申し訳ない。散らかしちゃって…。もう大丈夫です」
「本当に? 遠慮は無用ですよ。ひと箱使い切ってしまう方だっていますからね」
神崎の包容力に救われる思いがした。
「初対面にもかかわらず、言いづらいことまでお話しいただいてありがとうございました。差し支えなければ、私が感じたことを少しお話してもよろしいでしょうか?」
「あっ、はい。是非、お願いします」
神崎は冷めてしまった珈琲をひとくちすすると、ゆっくりと話しはじめた。
「はじめにお断りしておきますが、ご承知のように、私は認知症の専門医ではありません。当然、医者でもありません。ですから、今から申し上げることは、これまでに多くの相談を受けて、さまざまなケースに関わってきた経験則です。専門医が検査データに基づいて診断を下したり、治療や処方を決めたりするのに対して、私の場合は、これまでのケースを参考に、傾向と対策をご提案するということです。この点だけは、あらかじめご理解ください」
「わかりました」
神崎は笑顔でうなづくと話を続ける。
「率直に申し上げますが、おふたりはかなり危険な状況だと感じました。何よりも、ご子息である杉本さんが耐えてきた時間が非常に長い。問題行動を伴う認知症の方と毎日顔を合わせる生活は、ふつう1ヶ月と耐えられないものです。誤解を恐れずに言わせていただくと、母ひとり息子ひとりのケースが特に危険なんです。
いわゆる老老地獄というのも、この組み合わせがもっとも悲惨な結末を用意していることが多いと感じています。母親と長男のたどる歴史は、他の組み合わせと比べてはるかに濃密なものです。それゆえに、一旦おかしくなると、仲の良かったときの反動で、哀しい事件に発展してしまうのです。
ですから、杉本さんのケースでは、日々直面しているお母さまの問題行動の緩和を図りつつ、おふたりが離れて暮らす準備に取りかかるべきだというのが私からの提案です。いや、結論・・・でしょうか」
杉本が身を乗り出すように神崎の次の言葉を待つ。
「具体的には…、ふたつのことを同時並行で進めていきます。ひとつは、お母さまに精神科のもの忘れ外来を受診させること。で、初診の段階から入院の流れを作ってしまうのです。もうひとつは、通院しながら、つまり、入院できるまでの間、問題行動を抑えるためにカウンセリングをやってみましょう。私どもでできるのはこんなところです。しかし…、これが杉本さんにとってベストな選択肢だと言い切ることができます」
神崎の真剣なまなざしのなかに、杉本は自分の姿を見ていた。10秒ほどのアイコンタクトがあって、杉本がちらっと腕時計に目をやってから口を開く。
「神崎さん。私は今日、はじめてお目にかかって、そして一時間半近くも話を聞いていただいて、神崎さんに助けてほしいと決めました。私がこれから何をどうすればいいのか、是非、教えてください。神崎さんとこうして巡り合えたのは、やはり意味があるのだろうと思うんです」
「そうですか。ありがとうございます。お母さまはの症状は、問題行動を伴う認知症の典型的なものです。そして、残念ながら、快方に向かうことはまずありません。息子さんの顔がわからなくなる前に、事を進めておくべきだと思います。まず、医者に診せる件ですが、何度かトライされて断念したとおっしゃいましたよねぇ。お母さまが普通の状態の時に、私がお目にかかる機会を何とか作っていただけませんかねぇ?」
「そうですねぇ・・・」
考え込む杉本に、神崎が続ける。
「よくやるのは、私が杉本さんの親しい友人という設定にして、どこかで杉本さんとお母さまにバッタリと出くわす。その時に、私どものイベントにお誘いする。で、おふたりで参加していただいて、その流れの中で、認知症チェックとか健康診断とかに行かれることをお勧めする・・・。
もちろん、あらかじめ、もの忘れ外来をやっている医療機関を調べて予約も入れておきます。その際には、なんなら私も同行します。まぁ、大体はこんなステップで受診させることができると思います。こんなことをこれまで何十回とやってきましたが、いちども失敗したことはありませんから」
「そうですか。私としては、どうなるかまったく読めませんが、神崎さんのおっしゃるようにやってみたいと思います」
「ありがとうございます。もの忘れ外来は、原則、完全予約制です。そして、受診は通常は月一回なんですよね。アリセプトという認知症の進行を鈍化させる薬と、あとは夜間ちゃんと眠ってもらうための睡眠導入剤。これを飲みながら様子を見るという感じなんです。しかし、杉本さんのケースは、最初から入院前提で話を進めていきます。認知症の確定診断をもらうとともに、ご家族、つまり息子さんの置かれた苦しい状況を伝えて、ご家族をまもるためにお母さまを入院させてもらうように段取りします。なので、はじめから入院病棟のある医療機関に行きたいですよね。もちろん、こちらで目星をつけますので、杉本さんに動いていただくことはありませんからご心配なく」
杉本は急展開に驚きつつも、現在の地獄のような日々から脱出するために、目には見えない何かが神崎に引き合わせてくれたのではないかと思い始めていた。そして、五里霧中の出口を欲するあまり、身を乗り出すように、もっとも気になる質問を神崎に投げた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?