【終活110番017】こころの距離がはなれてく
生まれた時は天使のようだった赤ちゃんも、生まれ育つ過程で次第に無邪気さを失い、時に歪んでしまったりもします。幼稚園・保育園、小学校、塾、習い事、中学・高校・大学、そして社会人デビューすれば職場の人間関係の中にさらされることになるわけです。他者の影響を一切受けないということは不可能だし、良貨は悪貨に駆逐されるのが世の常です。
家庭内のごたごた、両親の喧嘩、兄弟姉妹や親族間のいがみあいや罵りあい。父親の背信、母親のヒステリー、友人の裏切り。家族や隣近所の無神経な干渉。メディアから垂れ流される暗くて残忍なニュース、低俗で俗悪なテレビ番組の数々。こうした環境に無垢なこころを容赦なく突き刺されながら、人は大人になっていきます。素直な人ほど悪影響をまともに受け、スポンジのように吸収してしまう傾向があります。こうして、本来はまっすぐだった性格がいつの間にかひねくれ、悲観的で疑り深く、不安で憂鬱で破滅的な性格に毒されてしまうのです。そして、このプロセスは万人が通る道であり、これこそが大人になるということなのです。
多くの場合、子どもが生まれてから幼稚園や保育園に通い始めるまでの3年ないし4年は、親子関係は無償の愛に満ち満ちています。小学校に入っても、中学年(3年生・4年生)くらいまでは子どもにとって親は絶対であり、親にとっても、最愛のわが子は、ある意味、「目に入れても痛くない」とか「自分のカラダの一部」といった表現もあるように、自分の所有物に近いまでの存在です。だいたい10年間はそんな関係が続きます。
ところが思春期を迎えたころから雲行きが怪しくなります。自我に目覚めてきます。この頃には関わりを持つコミュニティの数も増えてきます。親から聞かされていた世界観や常識とは異なる刺激をカラダじゅうで浴びるようになります。当然、知識や情報の量も加速度的に増えて、子どもなりの価値観が作られていきます。そして、わが子の価値観と自分の価値観との間にズレを感じた時、親がそれを修正しようとした瞬間から、親子のこころの距離がひらいていくのです。
大学入学、就職、結婚。こうしたイベントによって、それまで同じ空間で寝起きしていた親子は、物理的にも離れて暮らすようになります。自分の家庭をもって子どもができたりしたら、接触頻度は一気に減ります。お盆休みとかお正月とか、年に一回か二回しか顔を合わせない親子はザラにいます。親側とすればとてもさみしいことですが、それはもうやむを得ないことです。
気づけば、親は歳をとり、身の回りのことはどうにか自分でできはするものの、身体能力の衰えを自覚するようになると、老い先への漠然とした不安に駆られるように…。さらに時が過ぎれば、さまざまな生活習慣病の症状が顕著となり、「介護」という二文字がちらつきはじめます。その時、子どもの側は職場で責任ある立場となってはいるものの、わが子の受験や就職問題、住宅ローン、自身のリストラ危機等々、人生でもっとも大変な時期を生きています。この傾向は、新型コロナによる在宅ワークの推進や、人工知能による業務の効率化に伴う雇用削減のムーブメントでさらに拍車がかかるでしょう。
つまり、親世代が、老い先のことはもとより、普段の暮らしにおいても何かと問題が表面化してくる時期に、子ども世代は超過酷な日常でもがいているわけです。そして、大尾にして計ったように、老親問題がこのタイミングで(子どもの側にしてみれば)降って湧くのです。
親からSOSの一報を受けた時、一瞬ギヨッとした子どもたちも、「自分の親なのだから」と理性的な判断をして、忙しい合間を縫って親のために奔走することになります。でも、こと医療や介護の問題となれば、知識や情報が少ないし、手続きも煩雑でわかりづらい。ちょっとやそっと職場や家庭を抜け出したところで、そうは簡単に片付きません。現実問題として、時間がかかるのです。
思春期の時代から社会の第一線で活躍する時期までの長きをかけて、少しずつ、でも確実に離れていった親子間のこころの距離…。それを埋めずして、ある日突然、親の老後と密に関わらなければならない局面が訪れるとどうなるか。
そう。はじめは何とかやりくりして対応していた子どもたちも、一日に何度も、それもTPOを問わず携帯電話が鳴るようになると、条件反射的に「またかよ…」となります。さらに頻度が高くなると、「いいかげんにしてくれよ」的な、ささくれだったような感情が芽生えてきます。それでも、ちょっと隙間の時間があると、実の親に対してとった自分の言動や、とっさに湧き出たネガティブな感情を戒め、自己嫌悪に駆られるようになります。超多忙な目の前の現実と、遠く離れた場所で起きているもうひとつの現実。老親に対する面倒くささと心配。そのはざまで多大なストレスをかかえるようになり、その矛先は、多くの場合、家庭すなわち配偶者や(独立前の)わが子に向けられることになります。そして家庭がおかしくなっていくのです…。これが、何年もの時間をかけて離れていった親子のこころの距離が縮められないままに「まさか」が起こってしまった場合の、日常崩壊の典型的なパターンです。
でも、ちょっと冷静に考えてみれば、老親にいつか医療や介護の問題が生じることは当然のことですよね。つまり、こういった突然の「まさか」は、だれの身にも必ず起こることなわけです。理屈で考えれば誰にでもわかることです。にもかかわらず、親の側も子どもの側も、ただ漫然と先送りしているのです。
もちろん、積極的には考えたくないテーマであることはよくわかります。仕事や家庭のことであれば、ふつうにリスク管理をしているはずです。なのになぜ、老後問題や老親問題についてはリスクを減らすよう対策を講じないのでしょうか。ほとんどの人が、そうなってしまってから慌てふためくのです。単に老後の価値観の問題なのでしょうか。
できちゃった婚家庭の子どもよりも、計画婚家庭の子どものほうが、偏差値が高いというデータがあります。同様に、「なっちゃった介護」よりも「計画介護」のほうが、親子双方にとってベターなことは明らかです。
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