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自分が「出ちゃう」は最高じゃない?

先日「かかわり方のまなび方」で語ろうの会 vol.5を開催しました。今回も、会の中で分かち合われた内容がおもしろく、自分自身の経験と紐付いて考えが進んだところがあるので、書き留めておこうと思う。

自分が「出ちゃう」

対話の入口では、「自分はファシリテーターには向いていないのではないか」「場に立っていると、自分が全部出ちゃう」といったシェアがあった。本の中でもあり方について触れられており、その場にある自分に対して、人それぞれいろんな感じ方・捉え方をしているんだなぁと感じた。その場では、比較的「怖い」というトーンが強く受け取っていたが、僕自身はどうかあまり考えていなかった。むしろ、自分が「出ちゃう」という響きと感覚のおもしろさが印象に残った。

場に立つ自分のことや、自分が「出ちゃう」ということに思いを巡らせてみると、なかなかそういう場はないぞ、という稀有な体験をしていることにアンテナが立った。
どこか、多くの人の目の前で丸裸で相手に映っているようなことは、場に立つ以外の場面では、なかなかなさそうだ。
それは、最近の自分にとっては、怖いというよりは「仕方がない」という風に思っているのかなぁと感じた。
場に立つと、自ずとそうなるよね、という風に捉えているから、「出ちゃう」という響きに共感し、おもしろがっているのかもしれない。
うんうん、出ちゃうよね、と。

この「出ちゃう」ということは、自分にとっての恐怖心になってしまうこともあると思うが、全体を見ると自分の「味」が表れるということではないかと思う。なんだかんだ、いろいろな経験をしてきた自分の生きてきた感じが表れる。だとすると、まずは自分で自分のことを受け入れていくことや、自分の願いに気づいていくことが、場に立つにあたり、取り組んでいくとよいのではないか。「あり方」は、より自分に近づいていくことで感じられるものであり、自分とつながっている感覚なのかなぁと思う。
こういうことを考えていると「自己一致」のテーマと自然に近づいてくるのがおもしろい。

「聴けていない」のではなく、「聴こうとしていない」だけ?

対話の後半では、他者へのまなざしや、他者との出会い、「あなたがいるー自分がいる」といった話題が立ち現れた。「自分は他者をどう見ているのか」いう問いにはよく出会うし、最近の自分の経験とも紐付いて、ホットな話題だった。

別の文脈で、共感についての本をいくつか読んでいるのだが、今朝、その場に「いる」ことや相手とのつながりについて、腑に落ちた。

それは、そこに自分や相手が「いる」かは、自らの「選択」であり「態度」であろうと。
相手の話を聴くという行為をとってみても、「相手の話を聴こうとしていたが、聴き切れなかった/受け取れなかった」のと、「相手の話を聴いているふりをして、心のなかではそもそも聴かない/受けとらない選択をして、距離を置いていた/その場から離れていた」かは大きく異なる。

聴けたかという結果ではなく、聴こうといてその場にいるという「選択」をし、相手の話に全身全霊で耳を傾けるという「態度」が、自分の存在、相手の存在、お互いのつながりに大きく影響する。

人間のエネルギーは有限であり、日常生活や仕事において、いつも、全員の話を、同じ熱量で「聴く」ことは、現実的に難しいと思う。
ただ、その「聴く」態度そのものの感覚を養い、いざというときにそのスイッチを入れるという選択をとることは、自分が望む相手との関係性をつくることにつながるだろう。

「自分にとっての○○さん」ではなく、「○○さん」

「聴く」という行為を実践しようと考えたときに、壁になりそうだと感じたのが、自分の認知やその背景にある信念だ。

振り返ってみると、自分が聴こうとしていないとき、「また~って言ってる、○○さんは・・・だからな」という思考が働いていることが多い。自分の信念の反応によって相手にラベルを貼ってしまい、相手の一部しか捉えていない。また、起点が自分になってしまい、「自分を助けてくれる存在」とか「自分を悩ませる存在」などと、無自覚に相手の存在を捉えている自分がいることに気づいた。要は、相手の存在を自分の文脈で規定してしまっている、ということだ。

僕が目指したいのは、「○○さんの生きている感じ、ストーリー、気持ちなどを、そのまま受けとること/一緒に実感をすること」だ。
ワークショップなどの場では自然と表れるこの感覚も、仕事のなかでは思うように発動させることができないことがある。
もちろん、状況・役割などさまざまな文脈があるため、一概に結論づける必要はないが、少しでも、自分が相手と一緒にいたい感覚を、願いとともに体現していけるように、日々過ごしていきたいと思う。

さいごに

僕は完璧を目指しているわけではなく、揺れ動く自分も含めて自覚的であり、できるだけ願いとつながった選択をとれるようになっていきたいなぁと思っている。それは、プロセスのなかで、もやもやしたり、あぁやっちゃったなぁ!と悔いたりする自分も受け入れるということである。
そんなこんなの「楽しい修行」を重ねて、自分のいのちが「出ちゃう」人生を楽しんでいきたいと思う♪