朝からもう一度始める

目が覚めると、いつもの朝だった。
やっぱり今日も何も分からないなあ、とおもう。
昨日から少し積み重なったものは覚えていて、何かが増えたような気もするけど、
分からないという気持ちは変わらない。
経験は量的には増えている、とそう見なされるんだろうけど、
経験に対する解釈の仕方とか、気持ちのありようとかは変わったところもある。
つまり質的に変化していくから、全体としてはやっぱり解釈し切れないという気でいる。

可能性は無限にあって、そうは言っても今までの経験から、起こりそうなことを限定はできる。
にもかかわらず、人間の思考の様式として、有限のなかに無限を見いだせるから、
私が生きている時間や私が生きている空間(私の身体もふくむ)に限定された私の人生においてさえ、
可能性は無限にあると考えられる。

だからと言って、何かを期待したところで、ある効果を手に入れるだけだ。
つまりそれが起こるか起こらないかによって感情を揺れ動かせるという効果を。
どうしても期待してしまうというゆるい狂気が襲うことはあるけど、
あまり必要はないと今は思っている。
だから、期待は注意深く外すことにしている、それは無気力とは違う。
私をそのままにしておくことだ。

私はそのままで開いていくことだ。
私はお湯を飲む。
分からないから分かろうとしていたときがあった。
そして、分からない部分は残り続けると分かった。
分かろうとすることは続けられるからだ。
どうもそうらしい、と今は信じている(にすぎないから、いつかは全部分かり切るのかもしれないが)。
すると、分からないままでこうして様々なものが存在しているのだとおもった。
一定のレベルで、分かったことにしているにすぎないのだともおもった。

これでいいのだと納得できることが大切だともおもった。
納得してしまったら、次はどうすればいいのかが分からないとおもった。
与えられたものをやってみればだんだんと自分が見えてくると言われた。
いい場所で散歩して、瞑想でもしてみたらと言われた。

お湯を飲む。
言葉はとても不自由だと感じる。
お湯を飲む。
ほんとうは私が求めるものなど多くはなくて難しいものでもない。
ただそれを言葉で表そうとするとどうしても長くなりそうで、短くしたくない。
短い言葉でもいいのかもしれないが、いや、いいのかもしれない。
あまり適切な言葉が見つからないだけかもしれない。

言葉を厳密にしようとすることはとても手間がかかることだ。
今日はこれで時間切れです。

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